"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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八雲 (函館本線) 1972

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鉄道と道路との立体交差、ここでは跨線橋のことなのだが、今昔に撮影の立ち位置である。特に目ぼしい俯瞰画角の見いだせない区間に在っては貴重に違い無い。けれど、都市部以外にこれが出現したのは、経済成長に道路交通が飛躍的に増加した1960年代以降のことになる。全国的に主要国道とは名ばかりの土道だった地方幹線道路の改良が進められ、これには鉄道との平面交差の解消は命題とされていたのである。山越郡八雲町域(当時)を縦貫する一級国道5号線も道央道南連絡の幹線道路として、その対象であった。

1957年の落部村との合併により、栄浜から黒岩までの33キロ程となっていた町内国道の改良工事は、北海道開発局函館開発建設部八雲出張所(現八雲道路事務所)により、1958年の八雲市街地区間の舗装工事から着手され、1967年に一応の完了を見るに至った。栄浜から栄野への鉄道路盤からの転用区間を含めて拡幅と舗装は勿論のこと、この間の橋梁22箇所は全て永久橋に架替られ、函館本線との平面交差箇所の立体化も施工されたのだった。
市街地南端に位置する、内浦町の八雲跨線橋は中でも工事末期まで持ち越された地点であり、1967年の3月に供用が開始されている。鉄道側では山越-八雲間の線増工事只中であり、当初より橋梁部の複線を跨ぐ径間で建設された。ここでは小河川の熱田川も交差し、径間延長を避けて立体交差の盛土底部に小型のコンクリートケーソンを埋設し流路としたのだが、近年の集中豪雨に対する流下能力の不足により、溢水が函館本線路盤を洗掘して通過貨物列車の脱線に至ったのは記憶に新しい。

八雲方から八雲跨線橋に差し掛かるのは124列車である。長万部から函館までを砂原回りで4時間をかけていた。
区間列車にかかわらず基準方に荷物車を連ねた函館線普通列車には当たり前の姿は、ネットワークが独立していた室蘭本線内からの継送のはずである。
機関車を中央に配置するあまりに後部を切らせてしまった、まだ拙なかった技術をご容赦願いたい。

線路と南東から北西方向に交差する八雲跨線橋の設計は、将来にその先を八雲バイパスとして海岸沿いに延長する計画に依っていた。それの実現は遠く1983年のことであったから、暫定的な現国道への接続には半径50メートルの反向曲線を介在させたところ、それは急曲線の事故多発地点となってしまった。1972年には曲線改良のなされたものの跨線橋からの下り勾配も相まって、永く運転者を悩ませたと八雲町史は書いている。
現在跨線橋線路乗り越し部には、御多分に漏れず丈の高いフェンスが設置されてしまったのだが、並行して1980年に架けられた八雲跨線橋歩道橋には何故か設置が見送られ、この八雲方への画角は今も健在である。

[Data] NikonF photomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f4-5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

厚岸 (根室本線) 1971

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根室線の釧路以東区間を久しく訪れていない。記録を遡ってみれば1986年の夏前が最後だから、もう30年を経過する。
厚岸湾岸、辺寒辺牛湿原にせよ、落石千里浜にせよ、その景観は変わらぬだろうが、鉄道屋なので、やって来る列車に魅力が乏しければ、どうしても足は向かぬのである。この間、札幌所の寝台車で組成された臨時運用が幾度か施行されたけれど、沿線の騒ぎを思えば遠慮申し上げるしかなかった。
周遊券・周遊きっぷや自由乗降型企画券が遠い過去となり、道内夜行が皆無となれば、それは「周遊旅行はするな」と云われているのと同義だから、最近には航空機で行き来するピンポイントの撮影ばかりで、釧路にも随分と出入りしているのだけれど、釧路以東と云えば至近の釧路川橋梁で単行気動車を眺めるのがせいぜいである。

厚岸の根室方、線路が厚岸湾岸に接近する位置に所在した、湖面での漁専用の小舟の繋がれた船溜まりには、1970年の初遠征で訪れて以来に幾度も立ったものだった。下り列車なら線路際から、上りに対しては粗末な岸壁から前景に小舟をとらえるのが定番の画角である。
この位置は、先住民がタンタカと呼んだ地から厚岸湾に突き出し、厚岸湖との境を為すように発達した砂州の内水面側の、1960年代前半までの埋め立てにより出現しており、本来には岸壁とは云えず、本当に粗末な木杭と木板で土留めがされているだけだった。干潮ともなれば、写真のように泥の底が露出して係留の小舟が取り残される有様だったのだけれど、70年代末には浚渫もなされ、土留めも岸壁を兼ねたコンクリートに改修され、線路寄りには船揚場も整備されて船外機の小舟ばかりでなくエンジン船も見られるようになっていた。
岸壁上には漁師小屋も並び漁具も無造作に置かれた一通りの漁港風情には、浜番屋に執心していた時期でもあり、幾度も通った理由のひとつであった。ただし、それにお見せできるような成果は手にしていない。

写真は、駅も間近にこの位置をゆっくりと場内信号機に接近する464列車。根室から釧路操車場までの区間貨物である。
G2Type後藤デフにJNRロゴのこの機関車についてはWebに幾らでも記事がある。個人的には必然の無いデフ改造に装飾は(加えてランボードにテンダ上縁の白線も)、ブームを当て込んだわざとらしさが鼻についたものだった。

ここは1990年代に至って、さらに埋め立てが行われ、線路と平行方向に船揚場が拡張の上移設されて、立ち位置としては失われた。もっとも、写真で造成の進められていた様子の窺える背後の丘陵に住宅の建ち並んだ今には、あまり魅力は無い。
移設船揚場の後背地で絶滅危惧種厚岸草(珊瑚草)の人工栽培が行なわれているとは、以前の記事 厚岸 (根室本線) 1972 に書いた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400)  Edit by LightroomCC on Mac.


島松 (千歳線) 2004

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その昔、親父との大衆車パブリカでの日曜ドライヴで、広島街道を厚別丘陵を越えて長沼方面へと走ると、まっすぐな道路の行く手を遮るような黒々とした樹林帯を幾度も眼にしていた。これを横切る途中で自動車を降りてみれば林中の如くであったし、並行する道を行けばどこまでも尽きぬ延長にも感嘆したものだった。
石狩平野に広く分布する国有の防風保安林である。札幌に暮らした分には身近な風景だったけれど、内地にその規模をみることは無く、植民区画に由来して整然と区画された耕地を大規模に縁取る防風保安林は、これも北海道の独自な景観と思う。最近にWeb上でいくらでも閲覧可能となった衛星画像を確認すれば尚更の感がある。特に、西側に後志の山系へと続く丘陵地を眺める長沼低地は、作付けの春先にそこから吹き下ろす冷風の回避からか、多くの防風保安林が設けられているのが見て取れる。それは高高度の撮影にもくっきりとしたグリーンベルトである。
これらの起源を調べるに行き当たった資料は、札幌営林局(当時)による1975年の「都市化地域防風林の整備調査報告書」だけゆえ、一次資料を直接に調べていないことをお断りするのだが、それには1886年に始まる北海道庁による殖民区画の選定過程(本文書には「殖民区劃測設」とある)から農耕地間に「防風林帯として」(原生)森林を存置した旨が記載されており、1896年には「殖民地選定及区劃施設規定」を制定して「防風林ハ少クモ1,800間毎ニ之 ニ相当スル土地ヲ適宜存置スヘシ」と定めたと在る。
3キロあまり毎に設けよ、とは道内の広大な耕地面積を考慮したものであろうし、その面積に効果を及ぼすにはあれだけの帯域を要したのであろう。調べ得なかったけれど、80から100メートルの幅は当時での44間から55間を基準とした思われる。
このように原生林の存置を意図したものであったが、実際には開墾にともなう伐採も進んでしまい、一部には防風林帯としたものの草地に放置されたり、天然更新のヤマグワやヤナギなどの林相と化したりであったため、1897年施行の『森林法』で保安林と規定し、道庁は1907年に「北海道国有林整備綱領」を定めて造林事業を推進したようである。その結果、1920年頃までには現在の如きヤチダモを主体とした樹林帯の出現を見たと云う。
この規模の大きい防風保安林を地元の農家は、そこを薪や木炭など生活材の調達先に位置づけ保全に努めた。つまりはその6キロから8キロに及ぶ延長からは、ひとつの「里山」であり、彼らの呼称も「お山」だったと聞く。

1926年8月21日開業と記録の北海道鉄道(2代)札幌線は、千歳-恵庭間の2箇所と島松停車場北側で、この防風保安林を切り開いて敷設された。前者は、現千歳線の長都とサッポロビール庭園付近であり、特に長都はその伐採跡に立地している。島松の北側で斜めに横切る防風林帯は幅が30メートル程と小さく、これは20間と云う規格なのだろうか。
そのさらに北側、島松神社からそれを越えた向こうの南19号線踏切には幾度も通った。南北方向の線形には上り特急寝台列車通過時刻なら西側からの斜光線を浴びたからなのだが、改めて過日の原版を確認すると降雨下の撮影も多い。明確に意識したでは無いけれど、島松の駅から然程遠く無い位置には「雨傘」にもしていたと云うことだ。→ 白石 (千歳線/函館本線) 2000

写真は、ルルマップ川橋梁への10パーミルを駆け下りる8002列車。画角の何度もの既出はお詫びする。
この日のことはよく記憶していて、前夜の<利尻>で南稚内に降りたものの、雨天に嫌気の差して<スーパー宗谷>で蜻蛉返り、そのままここに立っていた。この後も数日に悪天の続くことが予報されたので、モノは試しと島松でマルスを叩いて貰えば、運良く当日4列車の1人用個室A寝台のキャンセル分に巡り会い、それで帰京している。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6  LBA1 filter  Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by LightroomCC on Mac.

箸別仮乗降場 (留萠本線) 1979

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国有財産を無償で承継した民営鉄道会社とは、随分と勝手なことをするものだ。留萠本線の末端区間の話である。
降雪やら風雪の気候が大幅に変動したでなく、沿線の地形が大改変されたでも無い。増毛港を内陸へと連絡するこの区間は、1世紀に及ばんとする歳月を開業以来の位置に線形を維持して休むことなく客貨を輸送し続けてきた。
春先の融雪期に雪崩の危険箇所が存在すると云うならば、それはその間に継続的に潜在したに違い無い。記録に当たってはいないけれど、時には実際に線路を塞いだことだろう。それでも、可能な限り速やかに復旧され、線区の機能が留め置かれたことなど無い。
ところがである。北海道旅客鉄道は乗客への危険を事由に、いとも簡単に春先の数週間の運行を放棄してしまうのだった。先の事由など建前だけのこととは言うまでもなく、1日に12往復を運行するバス交通への旅客の転移促進が本音である。かくて、輸送密度を39人キロまで落とした(落とせた)この区間は、沿線自治体は勿論、住民からの差したる反対もなく、2016年12月4日を最終運行とする念願が成就する。
全くに恐れ入った「公共企業」だけれど、そんな策を弄さずとも、沿線はとっくにこの線路を見放していよう。

2015年3月改正ダイヤでの、ここでの列車設定は6往復である。
この6往復の運行とは、もともとに輸送需要の小さい線区・区間における列車頻度の国有鉄道以来のスタンダードと云える。1980年代半ばの時刻表を開いてみれば、渚滑線も湧網線も興浜南・北線も羽幌線の中間区間も判で押したように6往復運行であった。これら線区も実態はより需要が縮小していたのであろうが、運行を削減したところで、車両の運用や乗務員の行路が当該線区に特化したものでは無い限りに、線区経営の改善には然程に寄与するものではなく、公共輸送機関との自覚が踏み止ませるのが、営業時間帯の2から3時間に1本運行となる6往復だったのだろう。
北海道旅客鉄道もそれを踏襲したと見えるものの、代替機関の未発達な時代ならいざ知らず、移動の自由が権利と理解されるよう変化した生活意識の下では、とても満足の往く頻度では無い。運営側と利用者では、6往復を巡って意識に乖離を生じざるを得ない。12往復の道路交通が並走しているとなれば選択先は明らかである。

とは云え、そのバス運行も1970年当時には24往復を数えていた。留萠駅前基準で6時台から19時台まで30分毎の運行である。公共交通として十分な頻度の、その後の40年での半減は、この間の増毛町の人口動態と符合する。1万人から5千人に、これも半数を減らしているのである。
対しての鉄道は札幌直通を含む8往復からの削減である。6往復は、やはり踏み止まったとして良さそうで、それは北海道旅客鉄道も受け継いだはずの「国民の国鉄」の微かな残滓に思える。

増毛へは1979年と翌年の二度訪れただけに終わった。ここの他には目ぼしい立ち位置が見つからず、それを撮って仕舞えば再訪するまでも無かったのである。
これは、既出のカットの前コマで、後追いの763D。増毛方に組成はキユニ21、1形式2両のみの希少車だった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


苗穂 (函館本線/千歳線) 1993

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 かつてのサトポロ(sat-poro)だったフシコサトポロ(husko-sat-poro)が流れ、メム(mem=湧水)の地でもあったそこの水資源に着目し、大友堀(創成川)と豊平川に区切られた一帯に事業所(工場)施設群を配置すべきと論じたのは、開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問として来日した合衆国農務局長ホルレス=キャプロン(Horace Capron)だった。開拓使はこの提言を受け入れ、サトポロと切り離されたフシコサトポロの新たな水源、ナイポ(nay-po=小川の意)と呼ばれた上流の小さな流れのあたりを中心に、木工や機械製造、馬具、漁具、製紙、製油、製粉、製糸、精麦、缶詰、味噌・醤油の醸造など多くの官営工場群を建設して往った。
これらは北海道拓殖の基礎製品を提供し、かつ内地への移出品を生産するものであった。これだけの工場の稼働には多くの労働力を要し、それらもまた移民にて賄われたはずである。それがどのような出自の人々であるかは調べ得ていないけれど、大方の想像はつく。経済的に決して豊かではなかった彼らは、工場近隣に用意された粗末な宿舎に居を定めることになり、社会保障など考えられぬ当時、官営工場が内地新興資本の手に払い下げられれば、資本による搾取の対象でもあった。
旧北海道庁庁舎正面から創成川を越えて苗穂停車場へ至る北三条通り沿道の市街地は、このような労働者階級の居住地として形成され、かつてには職工町と呼ばれた貧者の街、細民街であった。1900年代始め頃の苗穂界隈の様子は、当時札幌鉄道局に勤務し苗穂の官舎に住んだ、異色の作家橘外男の短編「求婚記」に次のように描写されている。


私はかねて聞いていた通り煙草屋と荒物屋との間の狭い横丁を入った。
職工町の一町ばかり先の左側を目指して入ったが、どうも何ともかともごみごみとした、行けば行くほど裏長屋の貧民窟のような処であった。
降り積もった雪が腰のあたり迄両側に掃き寄せられて、そのトンネルみたいな中を平ったく入って行った芥溜(ごみため)のあたりから、同じような小さな棟割り長屋が幾つも幾つも並んでいた。
[求婚記-現代ユーモア文学全集橘外男集(1954駿河台書房)に所収]

そればかりでは無い。都市は膨張の過程にて必然として貧民窟(スラム)を内包する。都市経済の拡大にはその規模を超えて過大な人口流入を誘起するが、必ずしも全てに配分の行き渡らないが故である。新たな流入者には、おそらくは小作農からの離農者などが多くを占めたと推定され、苗穂のほか豊平橋周辺にも存在したと云う細民街が吸収したものだろうが、そこからも溢れた者達は豊平川の河川敷を占拠して粗末な小屋を建て居住したのだった。貧民窟の出現である。この1910年代までには形成されていた豊平細民街から一条大橋、東橋を経て苗穂細民街に至る貧者の回廊と、その対岸菊水の白石遊郭の存在は、都内で言えば四谷2丁目から東福院坂を下りた鮫ヶ橋界隈から千駄ヶ谷を経て新宿貨物駅に至るそれと、その先の新宿遊郭に符合するのが興味深い。
札幌の例に限らぬが、このようなスラム街は往々サムライ部落と呼ばれた。その語源には諸説あって定まらず、古い報道記事などには武士部落と書かれているのを見かける。「武士」をサムライと読んだのである。
廃品・古紙回収で生計を立てられれば良い方で、多くは無職だったとされるが、中には実際に武家出身者も交じり、教養・教育もある誇り高き人々からのことかもしれない。
河川敷ゆえに出水の度に流されながらも、その都度に再建され、戦後に至れば緊急開拓政策による戦後開拓からも溢れた人口を吸収して拡大したのだった。この頃には都市景観上から幾度も撤去が試みられるも、いつしか再出現するイタチごっこを繰り返し、来るべき札幌冬季五輪開催にともなう強引な行政指導により消滅する1969年まで存在した。

残照を背に、苗穂の東方函館桟橋起点290K000Mへと差し掛かる2列車<北斗星2号>。
画角は幾度もの既出である。この位置には渡道すれば一度は立っていた。手元には1月から12月まで全ての季節が寝台特急を収めたこの画角で揃っている。これは9月下旬の撮影。手稲山からの稜線を遮ってしまうJRタワーはまだ無い。

1960年代に市電に乗りながら眺めた北三条通りが、奥へ行くほど、東橋に接近するほどに場末感を漂わせたのは、このような背景による。現在にも中心街に隣接しながらも落差のある街並が続く。前にも書いたが、土地の刻印とはなかなかに消えぬものなのだ。
とは云え、「細民」とは中間層が存在せず、富裕支配階層と下層階級しかいなかった時代の古い言葉である。貧者を意味したにせよ、現代に翻訳すれば「庶民」を指すと付言しておく。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhptpshopCC on Mac.


蘭島 (函館本線) 1986

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手稲の新興住宅地に暮らした頃、家族での海水浴と云えば祖父祖母の元へ帰省した折のことばかりで、至近だった日本海岸、石狩湾岸での記憶は無い。当時の家族アルバムを手繰ってみても、大洗や磯浜、鮎川のキャプションが付された写真は収められるが、道内のものは見当たらない。内地生まれの両親には、当地での海水浴など考えられもしなかったのだろう。唯一の記憶は家族のそれでは無い子供会の海水浴で、行先は蘭島海岸だった。

古来から日本人も海水に浴することは在ったろうが、それは禊など神事に属することに限られ、日光浴を兼ねた健康増進や余暇の楽しみとしての習慣は江戸期末期の開港以来に外国人によりもたらされたのだった。とは云え、薩長政権の時代となってもしばらくは彼らの奇異な習慣と見られていた様子であり、居留地からの行動制限内の横浜富岡海岸や片瀬海岸、神戸なら須磨海岸などが海水浴場に利用されるも、ほぼ外国人専用であったらしい。
1880年代に至ると、外国人と接する機会の多い上流階級や医師、一部文化人などの日本人が続き、「海水浴場」を名乗る海岸が各地に出現し始め、やがては1890年代を通じて一般化して往くのである。
道内における発祥は開港場函館に隣接の七重浜や開拓使本庁が置かれた札幌至近の銭函海岸とされており、お雇い外国人が利用を始め日本人が続いたものである。
遠浅で砂浜の風光明媚な蘭島海岸が海水浴場を名乗るのは1903年夏のことと記録され、それは道内における嚆矢となっている。蘭島の停車場自体は1902年12月10日に開かれていたが、平坦な線形から離れ小島的に開業した然別-蘭島間の1駅であり、それは翌夏を前にした1903年6月28日だった小樽中央への延伸に満を持したと云うことなのだろう。それには銭函や朝里浜を越えて札幌方面からの海水浴客を運んできたのである。
戸数200ばかりの漁村だった蘭島村(当時)の観光地としての発展は鉄道を抜きには考えられない。当初に徒歩連絡だった北海道炭礦鉄道の小樽と北海道鉄道の小樽中央の間、2キロばかりが、1905年8月1日に接続されれば尚更として良い。両鉄道の国有化を経て、鐵道院から鉄道省の時代に蘭島海岸は海水浴ばかりでなく、観光地・保養地に活況を迎え、多くの名士たちが別荘を構えたと云う。

戦前に訪れた、この隆盛期における海水浴臨時列車の運転については調べ得ていないが、記憶する1960年代以降なら、それらは基本的に余市着発で設定されていた。かつてに豊漁の続いたニシンなど海産物積出に整備された同駅設備の活用である。ただし、牽いて行った機関車が逆向きで築港区へ戻るのを目撃していたから、転車台は遠に使用を停止していたものと思う。勿論に蘭島着発列車も存在して、これには貨物列車の退避用だった中線が客車留置に用いられた。
蘭島での子供会海水浴は1965年のことである。帰路に乗車の臨時列車は満員の乗客を乗せた11両の客車を2両のD51が牽いた。この長大編成は函館本線が幹線ゆえの輸送力と云えよう。

通票の授受に本線を速度を落として通過して往く11D<北海1号>。
山線優等列車最末期の姿で、キハ80系編成と云えど食堂車の組成されない姿に、もはや特別急行の威厳は感じられなかった。夏期輸送の増結で2両目もキハ82である。これも特急らしからぬ編成には違い無い。
上り本線での行き違い退避は142Dの長万部行き。これに乗車してのスナップは、小沢に降りて102列車を押さえる前の駄賃だった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec@f5.6-8  Fuji SC-52 filter  Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.



函館 (函館本線) 1983

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戦前期までの函館港と云えば、国鉄函館桟橋から弁天町の函館船渠(現函館どつく)に至る一帯、現在に西部地区とかウォーターフロントと呼ばれている地域を指していた。
幕末の「開港」時点で函館山の山麓が箱館であり、その前浜を埋め立てるなどして用地を得、やがて港湾が形成されて行ったゆえある。1932年に函館市の手により竣工した現在の西埠頭もその延長にあり、北洋漁業の大型母船なども接岸出来たそれは函館港の中心的存在であった。その供用により、港湾地区が漁業基地に、同時期に埋立ての進んだ若松町から海岸町の東側地区が石炭や原木など工業材の集積地と住み分けられたと函館市史にある。
それは、西埠頭に加えて、北海道庁による東側地区への大規模埠頭の築造計画が1927年の第二次拓殖計画に盛り込まれていたことも背景としていたのだが、国鉄の有川埠頭が戦時下の陸運転換政策にて応急に築造されたのみにて終戦を迎えてしまった。

その中央埠頭の着工は国土交通省函館開発建設部の資料によれば、終戦間もない1946年とあるのだが、1944年10月に陸軍が撮影した空中写真には埠頭の基部らしき姿が記録されており、40年代初頭には工事の始められていたと見える。第二次拓殖計画には、国鉄の若松埠頭(函館桟橋を含む国鉄の海陸荷役施設を指す)の北方に2基の大規模埠頭建設と、後背となる亀田地区の工業地域化が明記されていたのである。
けれど、実際に着工したのは現中央埠頭の一基に止まり、終戦を挟んで再着工されたと云うことなのだろう。その全ての工事竣工は1971年までを要したものの、背後に整備されていた倉庫群や集積場、工場等に接したことで函館港の中核的地位を西埠頭から奪ったのだった。
なお、その年には北側で万代埠頭築造も着工されて、第二次拓殖計画でのプランは40余年を経て達成されたことにはなっている。
中央埠頭への陸側の連絡路、即ち臨港道路は永く国道5号線からT字に分岐する中央埠頭通りだけだったのだが、1980年代半ばに新川広路を介しての道道86号函館南茅部線との直結が図られた。流石にこの時代ともなれば函館本線との交差は立体交差となり、函館運転所の検修庫を間近に見下ろす位置に中央埠頭跨線橋が架けられ、函館構内を見渡す新たな視界となっていた。

朝8時の函館構内、彼方市街地は低く差し込む朝日を反射するモヤに霞む。下り本線をDD51に牽かれて加速するのは長万部までの123列車。その先は245列車として室蘭に達していた。青函局[函3]運用-3組中の1組-4両編成である。
この頃、函館運転所には29両の51形客車が配置されていた。このカットに写らないのは、240列車に運用中の[函3]のもう1組-4両に、森から126列車で2番ホームに到着して回送を待っている[函5]運用の1組-8両、写真の[函3]に併結で木古内から到着した[函付1]運用の1組-3両だから、写真の123列車を含めると、この時刻に運用に就いているのは19両になる。なので、検修庫前の通路線をDD13にて客留線へと押し込まれて往くのは、夕方に木古内へ向かう1723列車となる[函3]の3組目と[函付1]だろう。運用表上では29両配置の23両使用、予備6両の需給なのだが、実質には、より余裕があったと見て取れる。
航送線へと繋がる副本1番から4番線には、DD51にDE10、2両のDD13が見える。DD13は道内での配置末期であった。

この頃、中央埠頭跨線橋自体は竣工したものの、肝心の新川広路側への斜路が未成で、階段で上る歩道だけが供用されていた。贅沢な「歩道橋」だったと云うべきか。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

興部 (名寄本線) 1983

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1980年代半ばまでなら、ルーラル線区にも弁当の販売駅がまだまだ生き残っていた。日高本線の鵡川や静内に様似、留萌本線の留萌、根室本線末端区間の厚岸に厚床、釧網本線の弟子屈などである。そして、名寄本線の興部もそのひとつであった。
そこでの駅弁販売開始は1961年11月と歴史は浅く、それは米田弁当店の上興部からの移転によるものと記録される。

上興部へのほぼ最初の定住者だった米田久三郎が、アカダモが生い茂るばかりの原生林地帯だった植民区画上興部17線に私設駅逓を開いたのは1906年のことであった。オホーツク岸から天塩川最深部の内陸へと短絡する交通路上に天北峠を控えて位置したこの駅逓所は、1909年には官設駅逓に買上げられるなど拠点として繁盛した様子だが、久三郎の三男久作が管理人を務めた当時の1915年に上興部三等郵便局が開局すると逓送業務が無くなり、1921年10月5日の名寄線全通には、翌年1月に駅逓そのものが廃止されてしまう。
久作はそれを見越して1917年頃から澱粉工場を経営、駅逓廃止後には菓子舗を開店し、1925年には米田弁当部として上興部駅での弁当販売の構内営業に進出したのだった。函館桟橋-野付牛間直通1往復のほか、函館桟橋-稚内間急行接続の名寄-野付牛間1往復の長距離列車が経路とするなど、名寄本線が野付牛・網走連絡の幹線として機能していた時代である。名寄から先の汽車弁当は渚滑だけだったから、商機と見込んだものだろう。
冷蔵設備も無い中でのヤマベを用いた「やまべ寿司」は道内初の事例としてこの際に売り出されていたのだが、菓子舗を生かして「こくわもち」も製造・販売し、ともに評判を取ったと伝わる。前者は1972年に購入の150円の掛け紙が残るけれど、残念ながら後者には記憶が無い。久作の妻の郷里、石川県小松・松任地域に伝わるあんころ餅(圓八あんころ?)をヒントに製造したものと云うが、コクワを餡に仕立てられるはずも無くコクワ=サルナシの葉を用いた柏餅状の菓子だったのではなかろうか。
米田弁当部の興部移転は、1961年当時に計画されていた名寄線経由の札幌-紋別間急行が上興部に停車せぬことが明らかとなったゆえである。素早い経営判断と言うべきか、1962年5月1日の運転開始に先駆けて、そこでの構内営業を始めたのだった。同日には、その急行<紋別>ばかりでなく、旭川発着で名寄線を循環する準急<旭川>や興部-網走間の準急<天都>も設定され、ルーラル線区と化していた名寄本線の都市間連絡線への復帰が成っている。この当時、既に中長距離移動に優等列車利用が一般化し、供食需要はそれに頼らざるを得なかったのであろう。

興部上り乗降場に停まる628D、名寄行き。4両編成で到着し、825Dとして興浜南線に入る後部1両を残して発車して往く。
この時も、列車到着直前に携帯容器を下げて改札をすり抜る立売りの姿を認めていた。米田弁当部は列車ごとに調製して駅に運んでいたものと思う。やまべ寿司にこくわ餅は遠に製造をやめてしまい、幕の内弁当に、稲荷と巻物の寿司だけの販売と覚えている。
米田弁当部の構内営業からの撤退(廃業?)の時期は1985年の夏前と思われる。冒頭に掲げた各駅の多くも1986年には販売を終えており、同年11月改正における、そこを走る優等列車の廃止と運命を共にしたと云うことである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

川湯 (釧網本線) 1977

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御料地とは皇室の所領を指しての言葉と云う。そして、皇室を存立足らしめる天皇制は、徳川幕府より政権委譲(断じて「維新」などでは無い)を得た薩長政権が唐突に持ち出し、民衆の支配に利用した根拠の曖昧な装置である。そればかりでは無い。これは土地の収奪と隔離にも用いられた。勿論に為政者の利権確保のためである。

薩長政権は、先住民が全く預かり知らぬ間にアイヌモシリ全土の領有を宣言し、すべての土地を官有地とした。その上で、この独裁政権は、1872年の『地所規則』に『北海道土地売貸規則』に始まり、1886年に『北海道土地払下規則』を、1897年には『北海道国有未開地処分法』(旧法)と矢継ぎ早に制定し、それこそ勝手に地積処分を行った。その過程で支配階級による広大な土地所有制が確立して行ったのである。
独裁には、所詮は同じ穴の狢であり支配階級内での権力闘争に過ぎなかったのだけれど、やがて議会開催を求める自由民権運動を生ずる。強権的弾圧で対抗するも、その高揚に抗しきれぬと見るや懐柔にて沈静化を図った政権側は、1889年に非民主的な『大日本帝國憲法』の制定に漕ぎ付けると、翌1890年に第一回総選挙を施行し帝國議会の開催を受け入れた。
しかしながら、政権基盤であった国有財産への議会の関与を嫌った薩長政権は、これに先立ってそれらの皇室財産への編入を画策し隔離・温存を図ったのだった。官営に発する銀行や商社など国有企業の株式は皇室への献上を以て政府資産から切り離され、官有地・官有林は大規模に御料地への編入が行われたのである。この結果、1873年度末に約193万円だった皇室財産は1889年には975万円にまで増加したと記録される。これは大財閥と呼ばれた三井・岩崎・住友の各新興資本の合計総額を遥かに上回るものであった。
当時に釧路国川上郡熊牛村に属した熊牛・弟子屈・美留和・跡佐登原野においても植民区画の引かれていた578万坪を除く2000万坪と云う広大な官有地が1897年に皇室財産へと編入、御料地・御料林とされた。(数字出典は弟子屈町史だが、やや疑問が残る)
それは阿寒湖・摩周湖を含んで、1923年に成立した弟子屈村は村域の大半が御料地と云う特異な自治体となったのだった。そして皇室財産の観光地に、鉄道省は1936年の川湯停車場本屋の改築に際して、それに相応しい洒落た山小屋風意匠とし、果たして利用を想定したものか内部には貴賓室をも設けた。道内駅として現在までも唯一の事例である。

凍てついた川湯の下り乗降場。列車は混合636列車の網走行きである。行き違いも無いのに、ここで10分ばかりを停車する。
釧網線の客車はウェバストヒータ装備にてスチームの上がらないのが物足りないけれど、静まり返った中に低く唸るそれの動作音と微かな石油臭も、二度と帰らない鉄道情景だろう。
19時前はまだ宵の口に過ぎないが、日没の早い道東なら早くも深夜の趣ではあった。シャッタを開け放って絞り込んだレンズに夜を吸い込ませるのはモノクロームの、それも銀塩の領域と思う。

今に続く保守勢力の権力基盤は、天皇制を隠れ蓑にした姑息な収奪により築かれた。蝦夷地に限れば侵略と略奪と云うことである。とは云え、当の天皇自身もまた加担した罪は免れ得ない。被災地見舞い好きな千代田区在住の好好爺夫妻は極めて真っ当なリベラルに見えるのだが、曾祖父の行状をどう振り返っているものか、興味深い。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 bulb@f8 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

尺別 (根室本線) 2008

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道内におけるDD51型内燃機関車の運転が「ようやくに」終了した。それは1966年度末の旭川機関区への配置による石北トンネル越え、塩狩越えの補機運用を嚆矢としていたから、爾来半世紀に迫らんとする歳月は、確かに「ようやく」としても良いだろう。もちろん、この際の投入車が生き残ったではないけれど、それでも函館運輸所の最後の5両は全て1975年の新製車両につき、車齢は41年に達する。現在苗穂工場に保管されるC623でも1973年10月の運用離脱時のそれは25年に過ぎなかったから、恐ろしいほどの老朽機関車と言える。
ハーフサイズ写真機から一眼レフを手にした蒸機の終末期以来、釧網線や江差線で、後には天北線でDE10なり15に出会えたとは云え、この機関車を常にファインダーに捉え続けたには、時代の巡り合わせに違い無いとしても、20余年を過ぎれば些かに食傷気味なのが正直なところであった。言葉を変えれば「飽き飽きして」いたのである。
その凸型車体には入換機の印象を拭えないままに加えて、貨物鉄道会社に現れた機関更新機に対する赤系や青系の新塗色に、旅客鉄道の客車に合わせての青色20号など違和感ばかりが先に立ってどうしても馴染めぬのが追い打ちをかけていたとして良い。そこが北海道で、それが寝台車を連ねた特急列車でなければ写欲も失せていたことだろう。「ようやく」とするのは、そんな想いもある。

そこに登場した貨物鉄道の手になるDF200型電気式内燃機関車の、パノラミックな2枚窓を配したフロントデザインの本線機らしい箱型車体には、積年の恨みが解ける気のしたものだった。
試作機は1992年4月2日に五稜郭機関区へ回着しながら、一千トン牽引試験で死重を積んだコンテナ車の20両編成を牽いたりしたものの、なかなか営業には投入されずにいたのだけれど、その単独牽引が1993年の5月11日から4061-3070列車で実現し、運用区間も五稜郭-札幌貨物ターミナルに拡大されれば、開発事由の一つであった千歳線内での走りを撮りに渡道したものだった。以前の記事 南千歳 (千歳線) 1993 は、その際の一枚である。
90年代も後半に至り、その配備が定着した頃の渡道は、寝台特急とこればかりが被写体であり、この時期には道南地域にばかり通い、そこから外へ出なくなったのもそのためであった。
やがては運用区間も新旭川へと拡大、2008年春の改正からは根室本線を新富士へと辿るところとなった。これは撮らぬわけには往かない。

寂れた尺別の集落を背景に冬支度の原野へと踏み出すのは2091列車。
根室線への運用設定には、尺別 (根室本線) 2003 と5年を隔てて同じ丘に上った(ただし樹木の成長で全く同位置とは往かなかった)。季節も被写体も同じならレンズも同じなのだが、写真機はディジタルに替わっている。前年にNikonが35ミリフルサイズ機をラインナップしてくれたからである。それは待望した機材だった。

ご承知のとおり、DF200は2014年には低い線路規格に困難とされていた石北本線の臨貨運用にも進出した。この事態には少しばかり躊躇した末に、二度と踏み込まぬだろうと思っていた常紋の峠道に立つことした。札幌からの移動も前泊の宿からして見渡せばご同業ばかりと云う環境に、旧い鉄道屋はやはり困惑したと書いておく。

[Data] NikonD3+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f6.3 C-PL filter ISO320 W.B. 5260 Developed by CaptureOne9pro Edit by PhotoshopCC & LightroomCC on Mac.

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