"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

苗穂 (函館本線/千歳線) 2009

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北二条通り沿いの旧市街地は、創成通りから東へ、北を国鉄函館本線線路に、南を豊平川に阻まれた狭い地域を北一条と北三条通りを伴って伸びて往き苗穂駅前に尽きていた。1910年に札幌村大字苗穂村(1902年町村制施行までの苗穂村)の一部が当時の札幌区へと編入された区域であり、線路北側と共に同区苗穂町と呼ばれていた。1934年までには条理区画の整備に既存の「条・丁目」が拡張されて苗穂町は町名として消滅するのだが、編入の年にここへ開設の停車場は永く苗穂であり、一帯もまた引き続いて苗穂であった。
これは、1955年に至り、残りの旧苗穂村域が札幌市に吸収合併されて以降も変わりなく、とうに苗穂町は無くなっていたに関わらず、此の新たな編入域はわざわざ札幌市「東」苗穂町と区別された程である。
1960年代の後半、市内電車で出掛けた苗穂は、やはり札幌の行き止り、言うなれば街外れの印象が子供心にも強かった。川向こうの旧白石村もとっくに札幌市白石町となり宅地開発の進み始めていたにせよ、そこにはまだまだ田園風景が広がっていたこともあろうが、函館線の車窓に眺めた、苗穂駅前から豊平川の橋梁に至る袋小路の地区に空き地と錆びたトタン屋根の工場が交錯する光景の続いていたせいにも思える。
この、住所で云えば北二条東14丁目から20丁目とされる辺りは、旧い地図には豊平川の流路だったと読め、1947年に米軍の撮影した空中写真にも、その痕跡であろう水面が見て取れる。改修による直線化で堤防にて仕切られた後、土を盛ること無く乾燥化にて産み出された低地なのであろう。その出自が何やら殺伐とした心象を与えていたとも云えそうである。
1972年の札幌の政令都市指定にともなう行政区制下では、旧苗穂村域を北側地域と分断していた函館本線線路が行政上にも東区と中央区の分界と定められ、ここは名実共に中央区の辺境と化した。都市化の進んで工場が撤退しても、替わって進出したのは遊戯施設や物流倉庫であり、空き地や駐車場の目立つ空疎な風景には土地の刻印とは消えぬものと改めて思う。
最も奥地の東20丁目の農業用シート材の加工場がその全てには、おそらく住民登録者はいないだろう。

さて、東区との境界線であるが、これを仔細に見て往くと創成川から東7丁目まで地平当時の函館本線南側をトレイスし、そこで何故か北側に遷移して苗穂停車場に至っている。苗穂の鉄道用地は中央区と東区に跨がっており、構内での区境は岩見沢・千歳方面乗降場(5・6番線ホーム、おそらく開設以来の乗降場位置である)の中央を通過している。つまりは函館本線列車には東区で、千歳線列車には中央区で乗降することになる。だからと云ってどうなるでもないが、知っていると少しは楽しめようか。

苗穂東方、桟橋起点290キロ付近での8010列車<カシオペア>。
再々の画角はご容赦頂くほか無い。陽の短い季節に、この列車の走行を捉えられるのはせいぜい椴山あたりまでなので、札幌を出て直後のこの位置には幾度も立ったのである。
左の画角外が北二条20丁目。1960年代半ばに行われた既設線上流側への豊平川橋梁架替に際しては、この20丁目に線路用地が求められた。その買収額はかなり低廉で済んだものと思われる。

[Data] NikonF5+AT-X300AFPRO300mm/F2.8D  1/250sec@f11 NON filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.

七飯 (函館本線) 2008

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大野平野から無沢峠の直下、峠下隧道内での施工基面高136M90を経て小沼畔へと標高差100メートル余りを上る既設線勾配を緩和した別線新線、通称の藤城線は1966年9月30日に使用を開始しているから、函館本線無煙化までの7年間、ここを蒸機列車が通過していた。
10パーミルに緩和の標準勾配には、重連運転や渡島大野からの後補機は失われたものの、力行は約束されていたし近代的な真白いコンクリートラーメン高架橋との組合せも面白く、幾度となく通ったものだった。畑作地に農家の点在するだけだった周囲から見上げるのは勿論に、柵すらなかった橋脚のタラップを上って線路際より七飯構内からの盛土築堤を駆け上がって来る姿を捉えたり、眼下の仁山回り既設線の俯瞰を試みたりもしていた。直下に住宅の目立つようになれば、このタラップ上り口には鉄製の柵の巡らされたものの、1990年頃までなら北海道旅客鉄道函館支社に申し入れて撮影許可も得ていたけれど、昨今のごとき状況下では門前払いが関の山であろうか。

当然に、延長913メートルに及ぶ陸橋自体の俯瞰を考えぬ訳も無く、当時に1本しか無かった城岱牧場への登坂路周辺や送電線直下の保守用通路など斜面を探索するも、その時点で適当な地点を探し得えずにいた。ところが、とある月刊誌(鉄道雑誌では無い)に陸橋上の蒸機列車をほぼ正面から撮影したカットを見掛ければ、やはり撮れる位置は在るのだと些かに悔しくも思い、その写真からおおよその位置を、かなり西寄りの送電線保守通路付近からと五万図上で当たりをつけて再度探索に出向くも発見出来ず、斜面を彷徨った挙げ句に辿り着いたのが、俯瞰と云うには高度の物足りない畑作地だったのである。けれど、既に蒸機の無いことには写欲の沸かず、1980年に<ニセコ>が14系に置き替わるまで永く塩漬けにしておいた。→ 七飯 (函館本線) 1983

その位置は、2000年3月に開通した函館新道の用地となって失われてしまうのだが、同工事には前記の城岱牧場への登坂路(町道桜町8号線)が付替られて眺望の開けるところとなった。四半世紀を待った位置とでも云おうか。
早朝の低い斜光線に高架橋を上るのは3061列車。
C62に牽かれて高速で駆け上がって往く<ていね>編成をここで撮りたかったと、つくづくに思う次第。

[Data] NikonF5+AT-X300AFPRO300mm/F2.8D 1/60sec@f5.6 Fuji LBA2 filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by LightroomCC on Mac.

北入江信号場-有珠 (室蘭本線) 2002

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1980年度から1983年度に行われた14系の座席車系列や寝台車系列の北海道向け転用工事に際しては、台車にも極寒地運用が留意され、空気バネやオイルダンパ、軸バネへの被覆は勿論、空気バネの補助空気室を兼ねた構造の上揺レマクラへの防雪シールドなどの耐寒耐雪装備の他、耐雪ブレーキを装備し、それの常用を前提にブレーキシリンダを、1軸に1個の台車当たり2個から1輪に1個を割り当てた4個装備に増設、それにともない設置位置が台車枠横バリから側バリ外側へ移された形態が特徴的なTR217F型ないしG型に改造されていた。(但し、道内の最高速度95km/h運転にA急ブレーキ弁を撤去)
余談ながら、改造項目に「耐雪型鋳鉄製制輪子の使用を可能とした」との記述を一部のWebSiteなどに見掛けるのだが、それは原設計時から可能だったことを付記しておく。(→近代改訂図説客貨車 増補改訂18版 : 交友社 1983)
これの初見には、1955年のTR50に始まるプレス鋼溶接構造の客車向け台車の完成形であり、優美とも云えたTR217とは思えぬ無骨な外観に驚き、同時に氷雪の線路を駆けるには相応しい姿とも納得したものだった。実際に、厳寒の夜を走り抜け終着した編成の足回りを見遣り、突出したブレーキシリンダ部から盛り上がるように付着した氷雪のフォルムを美しいと感ずることもしばしばと記憶する。

実は、1986年度から始められた青森運転所の25系列に対する、将来の北海道直通列車向け転用工事でも同様の措置のなされるものと考えていたのだが、改造の確認されぬままに、その一群は1988年3月の<北斗星>運転開始を迎えてしまった。ならば、北海道旅客鉄道の手にて順次改造の施されるだろうと、それを札幌運転所客車検修に書簡を送り尋ねれば、担当助役氏からの丁寧な返信には、こう書かれていたのが印象に残っている。
----以下引用-------
(当該車の)改造当初より当所としては、14系客車並みの台車改造を要望しておりましたが、当時の北海道総局も北海道旅客鉄道も、そこまでの寒地向け改造は不要としてしまいました。札幌以北には運転しないのが幸いではありますが、やがて来るべき冬が不安でなりません。
----引用ここまで------
当時に俄然注目の豪華寝台特急を預かった検修陣の心情が吐露されていたものと思う。この助役氏も述べていたように道南区間だけの運転には、結果的に簡易的耐寒耐雪装備に留めたTR217C改で運行は確保され、不安は杞憂に終わったのだけれど、F型であれば避けれた小さなトラブルは多発し、検修陣が対応に忙殺されたとは想像に難く無い。1988年度末の6003・6004列車定期化にはオハネ14を種車とした改造車の多数が<北斗星>運用に加わり、それにも無骨な台車を履いたクルマの組成されるようにはなっていた。

ところで、オハネフ25 218/220の改造車であるスハネフ14 551/552もTR217Fを履いている。これは、前者のTR217C改を、同時期にオハネ25 551/552の種車となったオハ14 502/538のTR217Fと振り替えた結果である。前記のとおり、当時にTR217Fは110km/h運転用のA急ブレーキ弁を撤去しており、<北斗星>用のオハネ25 551/552がそれを要したためであった。他の14系を種車とした<北斗星>向け車両は、その際にTR217Fにこれの再装備を行っているのだが、<はまなす>の最高95km/h運転を良いことに、ここではそれを回避したのである。

最近に高名となった長万部起点44キロ500メートル付近反向曲線区間での1列車<北斗星1号>。
此の時には勿論、2007年にも件の位置には人の立ち入った形跡など無かったのだが、2010年の再訪にはすっかりと土の露出しているには驚いたものだった。これは、昔からの位置である畑作地の縁からのカット。陽の高くなっての通過には光線の工夫の余地が無い。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f3.5 C-PL filter Ektachrome Professional E100G [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

札幌 (函館本線) 1998

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1988年3月ダイヤ改正における設定当初の<北斗星>系統列車の所定編成は、電源/荷物車とも最大11両組成であった。青森運転所で上野/大阪-青森間系統に運用していた24系25形-78両に電車から転用の6両を加えた84両による札幌所と尾久区の計6組運用と云う車両需給と、当時に輸送力列車と位置づけられた6003・6004列車を含めての需要想定からのことであろうが、もうひとつの制約条件も存在していた。札幌の着発線および乗降場の有効長である。
当時に高架化工事の末期に在った札幌は1958年に構内改良を行って以来の地平駅設備であり、客車側に電磁自動空気ブレーキの装備されるとは云え、制動力から過走余裕を考慮せねばならない機関車牽引の全長273メートル余りの列車扱いには、運転取扱基準規程から線路有効長が316から346メートルの1・2・5番線は用い得ず( *1)、それぞれ488メートル、434メートルである3番線と4番線に限定され、所定着発線を旅客車14から15両を収容する300メートルの乗降場有効長を持っていた前者としても、異常時には250メートルに留まる後者に着発することも考慮すれば、これに収まる編成組成を要したのである。
さらには、当時の<北斗星>は札幌所と尾久区では道内区間で編成が方転しており、機関車停止位置を同一とした上で、10両の旅客車が乗降場に収容されることも考慮されたものと思われる。
しかしながら、運転開始の間もなくから施行された1列車への函館からのスハフ14連結、また夏季繁忙期に度々行われたB寝台車の増結による12両組成での運転には、4番線入線に備えての上下列車での停止位置調整を要したものと思う。
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( *1) 6・7番はもとより300メートル以下、8・9番線に至っては100メートル台だった

翻って、<北斗星>運転開始の年11月に第一次開業を迎えた高架駅は、1978年5月に国鉄が策定した基本計画では5面10線とされた乗降場の内、1番線から6番線までに接する第一から第三乗降場の3面は280メートルの有効長を、7番から10番線までの第四、第五乗降場は260メートルを確保する設計であった。つまりは全てが旅客車12両から13両の長編成に対応する設備を予定していたのである。
ところが、その後の輸送需要や情勢の変化により1985年3月に設計が見直され、第三乗降場のみを280メートルに据え置いた他は、全て230メートルに短縮されてしまう。同乗降場が存置されたのは、5面10線の中央に位置して函館線と千歳線のそれぞれの上下線に対し進出・進入ともに本線支障の少なく、長編成列車の出入りには支障時分を最小に出来るためである。もちろん、将来の本州北海道間直通寝台列車を想定してのことだったろう。

<北斗星>は、その想定どおりに第三乗降場の5番線を所定の着発線としていた。長い有効長に苗穂方へ突き出した機関車の停止位置に隣接ホームからの照明の届かぬのは好ましく、到着列車の前照灯の反射光を用いた演出が楽しめた。しかも、それの着番線、即ちは進入ルートの別を選ぶことで角度を工夫出来たのだった。
静かに発車を待つ重連の機関車は6004列車の牽引機。設定から10年、乗車率に陰りの見え、6003・6004/5・6列車では編成の季節減車も施行されていた頃である。その入線にカメラを向ける者も皆無だった。
これは千歳上り線から2番線に到着する列車による反射光。

ところで、この5番線の線路有効長は乗降場の桑園方・苗穂方共に4番線との両渡線の存在により335メートルに制約された。けれど、6番線との同時着発には、それらを鎖錠することで運転取扱基準規程上の過走余裕を確保し、その場合の実質的有効長は600メートルに達する。

[Data] NikonF5+AiNikkorED300mm/F2.8S Bulb@f4 Fuji CC10M filter Kodachrome 200 Professional(PKL) Edit by PhotoshopCC on Mac.

長和 (室蘭本線) 2008

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河川を横断する「頭首工」なる構築物の名称は、水路システムの先端に在って水圧を受け取水を働く部位を指す英語名 Headworks の無理矢理感溢れる和訳と云う。
取水設備として特に独自の形態を持つでなく、基本的にゲイト水門を持つ取水堰と取水設備からなる施設の総称に違いないのだが、その取水目的が農業用灌漑向けに限られるものが呼び分けられ、これは農林水産省においての専門用語とされる。河川中の施設であるから、その設置や設計・建設・施工、運用など国土交通省の定める各基準への準拠を当然に求められながらも、農林水産省の管轄となる。直接の管理も多くは『土地改良法』(1949年6月6日法律第195号)に基づいて設立の土地改良区が当たり、中には農林水産省直轄によるものも少なく無い。
発電用などの取水堰が堤高から『河川法』(1964年7月10日法律第167号)の規定するダムには該当しないにも関わらず、しばしばダムを名乗るに対して、堤高の16メートルを越える堂々足るダムでもそれを名称とする事例は希有である。設備をあくまで取水装置の総体、即ちHeadworksに見て堰単体では無いからなのだろう。中には堰を持たない取水口設備のみの施設も存在し、これも頭首工と呼ばれる。
その機能と運用の基本は、当然に河川水位を導水路より堰上しておくところに在り、洪水調節をも担うダム設備とは根本的に異なる。これらが突破的豪雨の多発する夏季には敢えて水位を低下させているのに対し、頭首工は水需要の大きい夏に最高水位を保持する。従って通常にはゲイトを閉じて自然に越流させている運用がほとんどなのだが、豪雨には直ちに開門しての放流を要し、また導水路への過大な補給を避けての水路水門の調節措置など独自の管理手法が存在する。

噴火湾へと注ぐ河川に在っては、流域に水田地帯の連続する長流川に3基の頭首工が設備されている。伊達市域の館山下頭首工、上長和頭首工と壮瞥町内の下立香頭首工である。道央自動車道や国道37号線に室蘭本線が通過する下流域の平野に通水しているのが、1967年に竣功の館山下頭首工に上長和頭首工であり、長流用水の名でそこに広がる水田地帯の約800haを潤している。米軍が1948年に撮影した空中写真には水田に混じっては畑作地の多くも見て取れ、長流用水はその転換に資したのであろう。
ところで、これら頭首工には永く魚道の設備されることはなかったのだが、近年の自然保護意識の浸透により2001年度までに追設工事が施工された。主にはサクラマスの遡上促進のためと聞いている。

礼文 (室蘭本線) 1996 にも書いた「北海道までやって来て稲作風景でもなかろう」との意識は、実は今でも抱いている。それとは相反するけれど、随分に高名となった長和の水田地帯を見下ろすこの位置も、要するにはそこが圃場と知れなければ良いのである。必然に刈入れの痕跡すら消滅する春先に立つことになった。
写真は、光線の程良い時間に走ってくれた8002列車。
景観に列車の存在を際立たせる深い屋根からの反射光は、それを銀色に塗っていた宮原区の編成ならコンテに計算出来た。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S  1/500sec.@f8+1/3 NON filter  Ektachrome Professional E100G [ISO160 / 0.5EV push]   Edit by LightroomCC on Mac.

礼文 (室蘭本線) 1996

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稲作の風景と云うのは日本の鉄道景観の主要な一部に違いなく、それは近代の植民地たる北海道とて例外ではない。
道南から道央へと北上する鉄道の沿線は稲作地帯として良く、函館本線なら桔梗から七飯、渡島大野へ続く函館(大野)平野、落部に野田生の扇状地、黒松内の先で一瞬垣間見る朱太川の流域、熱郛の周辺、目名から蘭越、昆布への尻別川流域、岩内平野最奥の小沢付近、銀山から望む余市川の谷底平野、然別から仁木、余市の平野と、次から次に水田の車窓が連続する。山線と通称される区間でも、山間の谷間は水田なのである。
道内稲作の中心地域とすれば、銭函で達して深川まで続く広大な石狩低地に神居古潭を越えた上川盆地となろうが、例えば蘭越町でも1870haの水田に248戸の米作農家を擁して、2014年度なら10400トンの生産実績があり、それは大野平野の北斗市に七飯町を合わせたものより大きい。
室蘭本線も、太平洋岸を進む室蘭から苫小牧の区間には皆無なのだが、大築堤で礼文へと下る礼文華川流域、車窓からは見えぬけれど小鉾岸川の谷に、洞爺から北入江信号場への山側緩斜面、稀府の鉄道林の向こう側などには小規模ながら水田が所在し、長和付近の長流川扇状地にはまとまった田園風景が広がる。そして、追分から先の長沼低地は石狩低地へと続く穀倉地帯である。

上野からの夜行列車は、東北線を北上するにしろ奥羽線経由にしろ夜の明けての車窓には延々と水田風景の続き、青函を渡ってまでそれもなかろうと思っていたものだから、函館山線の平野部や札幌以北区間に立った覚えは無く、かつてには稲作とは無縁の道北や道東ばかりを目指していた。1988年に札幌までの本州直通寝台列車群が走り始め、足は再びに道南に向いて、初めて北海道の水田の風景を画角にしたのだった。

噴火湾岸から礼文華川沿いに続く緩やかな傾斜地は、地形学上には河岸段丘だと云う。川筋の両岸に段丘崖の見当たらず谷底平野然としているのだが、ここでは海面の低下した最終氷期に生成された段丘が後氷期の海面上昇にて緩やかとなった水流に土砂の堆積した結果らしい。段丘面は埋没しているのである。沖積平野同然だからなのか、そこには水田が開かれた。室蘭線の線路は内地の生活者にも違和感の無い日本的風景を走る。
写真は、礼文華山トンネルからの大きな盛土築堤を駆け下りる9009列車<夢空間北海道>。
次世代寝台列車向け試作車3両とオロネ25 500番台に続くのは、スハネ25 700番台の2両にオハネ24 700番台。ともに博多<あさかぜ>廃止による余剰車の活用だった。画角の幾度もの既出はお詫びするほかないが、全て別の撮影セッションから選んでいる。

礼文の平野はそれの尽きるここにも水田が開かれる。築堤の向こうは稲の稔りの色である。
豊浦町の稲作は、隣接の小鉾岸川流域に、貫気別川の上流の一部でも行われるけれど、作付面積は41haに過ぎず、生産も210トン程度ではある。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f2.8+1/2 NONfilter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopCC on Mac.

稀府 (室蘭本線) 1997

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北海道線における鉄道林なら大半が防雪林に区分される吹雪防止林であり、少雪地域である噴火湾北岸の室蘭本線では礼文華山塊の渡島側にあたる静狩付近に設備されるだけなのだが、同線には、もう一箇所の鉄道林が所在する。稀府から黄金への長万部起点61K600M付近から63K500M付近までに続く、それである。
この例については、以前の記事 黄金 (室蘭本線) 1996 で、飛砂防止林ないし防風林として育成と推定したのだが、その後に同所で撮影のロールを眺めていたところ、ひとつのカットでマルで囲まれた「ふ」の記された鉄道林標識の写り込みに気がついた。1951年に国鉄の部内規程として制定された「鉄道林管理手続」(1951年5月19日総裁達223号-4月1日に遡って適用)で、それは吹雪の「ふ」からの「ふぶき防止林」を示す記号なのである。
これで、ここの鉄道林も吹雪防止林とは知れたものの不可解ではある。この地域とて吹雪くことはあるだろうし、実際に後背の山稜斜面からの猛烈な吹き下ろしを北舟岡の海岸線などで何度か体験している。けれど、降雪量からは列車運行を妨げるほどに吹き溜まるとも思えない上に、通常にトドマツやドイツトウヒなどの樹種が用いられることを思えば、明らかに樹高の不足している。ここでは落葉樹のミズナラが主体なのである。何よりも、設置はこの区間だけに限られる。

1947年に、当時の札幌鉄道局に置かれた営林課以来の国鉄部内資料を閲覧出来れば、それなりの情報も得られようが、叶わぬことゆえ以下は推定に過ぎないとお断りする。
環境省が公表している2万五千分の一植生図の本輪西図輹によれば、ミズナラの植生はこの地域での自然林と読める。牧草地や畑作地に開かれた中でその周囲に残された樹林帯は、ことごとくシラカンバ-ミズナラ群落なのである。とすれば、この鉄道林は育成されたものではなく、ここに鉄道の開通する以前からの存在ではないのか。即ち、一帯を覆っていたシラカンバ・ミズナラの原生林を切り開いて鉄道の建設されたのであろう。周辺地域も次第に伐採され農地に姿を変え往く中で、在る時点で鉄道側が沿線部分を鉄道林として買い取ったものと思われる。おそらくは、ここから稀府やその先にも原生林の続いていたのだろうが、農地や居住用地に開拓の進んで、その時点にて残されていたのがここだけだったのではあるまいか。求められた機能は、やはり吹雪への備えと云うよりは防風であったろう。
人為的な育成ではなさそうなのだが、そうとばかりも云えない。敗戦直後に米軍の撮影した空中写真に見れば、戦時中の燃料不足からかなりの面積で伐採の進んだ様子の見て取れる。現状への復旧は自然林に樹種を合わせての植林の行われてのことである。
なお、前述の「鉄道林管理手続」以下、営林関係の国鉄規程類では「吹雪」の表記は用いられず、すべて平仮名での「ふぶき」となっている。

陽光に稀府鉄道林の中を往くのは、3065列車。冬枯れのふぶき防止林とは本来にあり得ない光景なのだが、有珠岳や真狩山を背にして立っても好きな鉄道景観ではある。
この鉄道林は区分の境界は知らぬが、稀府方(起点方)から1号林、2号林以下の順に付番されている。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/500@f4  Fuji SC42 filter EPP Edit by LightroomCC on Mac.

森 (函館本線) 2000

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以前に 森 (函館本線) 1969 に書いたこととの一部重複をご容赦願いたい。
森-室蘭間航路とは、開拓使が札幌本庁と函館出張所との間に砂利敷舗装の西洋式馬車道である札幌本道を開通するに際して、その速成から渡島半島基部や噴火湾北岸の山道開削を避け、湾口の茅部郡森村と室蘭郡「新室蘭」のトキカラモイを海上連絡としたのに始まる。
森村の海岸には延長75間(≒136m)/幅21尺(≒6m)の桟橋が茅部産の栗材(茅部栗)を用いて築造され、1872年10月より開拓使附属船の「稲川丸」(15トン)が定期運行を開始したのだった。なお、桟橋は翌1873年に全延長141間4尺(≒257m)のT字形に追設される。
この時点では函館札幌間連絡に供される地域航路に過ぎなかったけれど、同じく1873年にやはり開拓使の手により青森-函館間定期航路が開設されれば、本州連絡の主要経路の一部に組込まれるのだった。
1883年には開拓使の直営から民間へ委託されながら、基幹輸送路として機能した航路の状況は、1891年9月1日に日本鉄道が青森に達し、翌1892年8月1日に北海道炭礦鉄道が岩見沢から室蘭(現東室蘭、但し位置が異なる)を一挙に開通すると一変する。青森-函館間航路を運行していた日本郵船が、両鉄道間の連絡を意図して航路を室蘭へと延長、所謂三港連絡航路としたのである。本州方面と道央との青森-室蘭間航路を挟んでの鉄道連絡は、その時間的距離の短縮はもとより輸送力の大幅な向上をもたらし、森-室蘭間航路は基幹輸送路の地位を譲らざるを得なかったのである。これには、森町史は1893年2月に航路廃止と書くのだが、函館市史には運行継続と取れる記述のあり、また別資料には休止との記載も見て取れ判然としない。とまれ、大きな打撃を被ったには違いない。

これの復活は1903年6月28日の北海道鉄道(初代)の函館から森への到達が契機であった。函館と室蘭連絡は恵山岬を大きく迂回する直行航路よりも函館-森間を鉄道利用とした方が時間的に優位と知れたのだろう。航路は北海道鉄道国有化後の1908年に再開され、位置的に鉄道駅構内に取り込まれた桟橋へは本屋から連絡通路の整備され、桟橋待合室も置かれたと云う。それは民間の経営ではあったものの鉄道連絡船そのものと云えそうではあるが、開設時点で鉄道は小樽を経て札幌・岩見沢に達しており、着工の目処の就かずにいた長万部輪西間鉄道の代替との位置づけも含めて地域内で完結する輸送路であったろう。実際に1928年9月28日のそれの長輪線としての全通に際して廃止されたのだった。

先頃、この航路を90数年を経て復活する動きの報道がなされた。2015年5月26日付の北海道新聞によれば、胆振・日高管内の自治体や各観光協会、商工会議所などにて組織する「北海道新幹線×nittan地域戦略会議」が、北海道新幹線の札幌開業時にはそのルートから外れることを見据え、2016年春の新函館までの延伸を捉えて森-室蘭間に海上連絡路を設定、在来線鉄道や高速道路に比しての大幅な時間短縮と、併せて室蘭沖を回遊する海棲哺乳類の観察を組込んで、観光客を直接に誘導するルート整備を図ると云う。そして、2015年夏にはその実証実験を行うと在った。
その詳細は同会議のWebSiteにもまだ発表されていないが、森側の発着地となるだろう森漁港と森駅には距離の在ることや、観光にレンタカー利用が一般化した現在に船腹にはフェリィを要すると思われるなど、困難も予想される。結果を待ちたいところである。

島崎川橋梁から続く海沿い区間での1列車<北斗星1号>。排気を噴き上げながら重連の機関車が加速する。
画角の数度の既出をお詫びせねばならない程、ここには何回となく立ったのだが、下り本州連絡列車群の通過する早朝の好天に恵まれた記憶はあまり無い。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/60sec@f4 Fuji LBA2 filter Ektachrome Professional E100VS [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

石倉 (函館本線) 1999

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石倉 (函館本線) 1989 に書いたような経緯で、石倉停車場の正面位置には集落が無い。幾度もここに降り、殺風景にも程が在る駅前を歩いて往くのは、落部方に栄浜の先から1.5キロばかり続く湾岸沿い区間で南下する8002列車を迎えるためだった。段丘下の海岸線をR=600曲線で旋回する線路を南側から望むなら、落部から歩くよりは遥かに近い。

先達諸兄の作品の多くも残されたその立ち位置は蒸機撮影の時代から承知しており、南中から高度を下げつつ西空へと至る光線の陰影も体験していた。けれど、東に開けた湾岸の段丘下と云う条件での17時37分と云う通過時刻には些かに梃子摺ったのだった。
なるべくなら段丘斜面や線路際に植生の繁茂してしまう前にと訪れた6月の初めに、すっかりと陽の陰ってしまう様には、果たして編成が後方からの斜光線を旋回する姿を撮れるものか、検証せざるを得なかったのである。まずは、その年秋の渡道の際に分度器と錘で自作した簡易仰角計測器を持参、ここでの朝の撮影の際に斜面のタラップを降りてのレリーズ予想位置の線路海側からの計測で、真西方向の段丘面上への仰角は16度程と確認し、次に、東経140度44分34秒/北緯42度17分94秒である現地での17時37分の太陽高度が16度を越える時期はと、暦のWebSiteに当たってみれば、その期間は存在したものの、6月19日から7月7日までの僅か18日間に過ぎないと知れた。それも、当該位置は段丘面上にドライヴインの建つように後背の一段上の段丘面までなだらかに斜面の続いて、しかも、そこの樹木に日射の遮られぬのが幸してのことだった。勿論、その前後時期でも撮れるけれど、足回りまでは陽の回らないことになる。

撮れることには安堵したものの、写真屋としての不満は、北回帰線に達した太陽のこの程度の期間での動きでは方位や光質の変化を楽しめず、その光線で「撮らされる」ことだった。つまりは、「誰が撮っても同じ写真」なのである。しかも、植生の成育には脚立が欠かせそうになかった。
写真は6月30日の撮影。この日の17時37分の太陽高度は年間最大の16.22度なのだけれど、肝心の8002列車の3分延には少しばかり低かったはずである。
短い対象期間への渡道スケジュール調整も然り乍ら、天候次第の撮影には、この列車の走っていた四半世紀に満足の往くのは数カットと云うところだったろうか。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec.@f4+1/3 C-PL+LBA2 filter  Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push]  Edit by LightroomCC on Mac.

有珠-長和 (室蘭本線) 1996

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柴田踏切へは最寄りの有珠駅から凡そ30分から40分と云うところである。その道筋は徒歩の鉄道屋としては面白く無い部類に入る。四半世紀ばかり前に小さく建替えられた待合所を出て、自動車通行の激しい国道37号線を延々歩かねばならず、一部区間には歩道も無い。少し前までシーズンにはスイカやメロン、イチゴなど周辺農家の直売所が軒を並べていたものだが、近年にはめっきり数の減ってしまい変哲の無い風景が続く。目印にしていた有珠中学校も2010年3月末日を以て廃校となり、跡地は伊達市によりサッカーフィールドに転用された。道南バスの中学校前停留所は「まなびの里公園前」と変えられていたから、国道南側に造られたパークゴルフ場ともどもそう呼ばれる施設なのだろう。
そこから右に折れる直線路は、その先の踏切名称から推察するに南浜通りと呼ばれるらしいのだが、地元の人ですら知らないだろう。東有珠川の小さな流れの両岸をコンクリートブロックに固めた水路への改修時に、これも埃っぽいだけの砂利道に直されたものらしく、歩いてもちっとも楽しくは無かった。しかもアスファルトで舗装された最近には余計につまらない。南浜通り踏切手前で左折すれば、ようやくに線路沿いの田舎道となるけれど、もう柴田踏切は目前である。

長万部近傍の反向曲線区間での1・8001・6003列車と並んで柴田踏切での8002列車撮影には、16時12分過ぎだった通過時刻の季節に遷り往く太陽高度と方位を求めて幾度も通ったのだった。
暮色近くの低く弱い斜光線が、エントモトンネルからのR=600M曲線を旋回する重連の機関車とススキの野を黄金に染めるごとくの最適な光線は、机上の計算から10月20日前後のせいぜい一週間と知れるも、西の低空に雲を生じない条件に巡り合うに数年を要したこともあるけれど、夏の季節の強烈な西陽も春浅い頃の枯れ野の風景も、また楽しめたのである。

写真は、初秋の澄んだ大気を旋回して往く8002列車。列車を待つ身には、そろそろ日暮れ時の冷気も感ずる季節である。
まもなくに陽も没すれば、暗い帰り道をトボトボと中学校前のバス停までを歩いて、一日の空腹感を抱えながら特急の停まる洞爺なり伊達紋別へのバスを待ったものが、数年前のこと、直近にロードサイド店舗のセイコーマート南有珠店が開店して、取り敢えずにそれを満たすことは出来るようになった。これが、駅前の商店もハイヤーも無くなってしまったここでの唯一の福音だろうか。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/125@f4 C-PL filter PKL Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

[お詫び] 未だに多忙より脱せず、更新の滞り気味なことご容赦下さい。

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