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"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

浜頓別 (天北線) 1985

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1970年代の後半に毎年のように通った興浜北線へは、札幌からの夜行<利尻>を午前3時の音威子府に降りて、一時間後に連絡する天北線列車に乗っていた。これは北見枝幸行きを併結していたから、それに乗ればまだ薄明の斜内に直通出来たのだった。けれど、長旅に深夜の起床も辛くなったものか、一度だけ浜頓別に泊まっている。駅前の浜頓ホテルである。
塩狩で一日を撮り終えての移動は23時の到着で、寝るだけの宿の一階フロントから2階への階段壁面に架けられた北オホーツクの油絵が見事で思わず見入った覚えが在る。ホテルでは無く旅館と承知していたけれど、予約の電話では洋室か和室かを問われ、洋室と答えていたそれにはバス付のツインルームが用意されていた。ツインルームは閑散期ゆえの便宜ではあろうが、道内では都市部のビジネスホテルでもまだまだバス無しが一般的だったこの時代に、それの設備には驚いたものだった。ここには駅前商人宿ばかりでなく観光需要も存在したのだろう。

80年代半ばに、思いもかけない天北線客車急行の運行で、ここへは再び足を運ぶことになった。けれど、それには朝の<宗谷>を稚内で捉えてからでも十分に間に合ったから、浜頓別に宿泊することはなかった。食事に寄った浜頓ホテルの食堂メニューには惹かれるものがあって(勿論酒の肴に)、ここを拠点にした天北線撮影も目論んではいたのだが、実行の機会の無いままに線路自体が消え失せた。

下りの<天北>は陽の短い季節には天北線に入ると日没を迎えてしまうから浜頓別でのバルブとして、上りを撮り終えればそこに移動して待っていた。
写真は風雪の中を稚内から到着した726D、音威子府行き。ここで15分程停まる。
この頃には、経費節減とやらでホームの蛍光灯は消灯されており、構内はほの暗くて駅の活気も感じられない。ここは興浜北線ホームへの通路だったのだが、この7月に廃止されてその先は雪に埋もれるばかりだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S  1/125sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

千歳 (千歳線) 1985

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千歳線と室蘭本線を馬追丘陵を越えて短絡する石勝線の千歳空港-追分間は、建設線名を追分線として建設された区間である。
鉄道敷設法(1922年4月1日法律第37号)別表第137項の「石狩國白石ヨリ膽振國廣島ヲ經テ追分ニ至ル鐵道及廣島ヨリ分岐シテ苫小牧ニ至ル鐵道」の規定を根拠に、1957年4月3日の鉄道建設審議会第20回総会における石狩・十勝間連絡鉄道建設の答申にて、その一部の北広島-追分間広分線として調査線となり、1959年11月9日の第25回総会の決定を以て工事線に編入されている(*1)。
以降には、工事線の総称にも用いられた石勝線の構成区間として一体に扱われて、1981年10月1日の開業に至るが、勿論予定線としての法定化時にそれの意識されたでは無い。その条文どおりに室蘭本線の苫小牧に追分を札幌に短絡するもので、前者は北海道鉄道(2代)の札幌線苗穂-沼ノ端間として1926年8月21日に実現した。追分への路線は長沼地域の開発を意図してのことだろうが、予定線とされてまもなくに鉄道省北海道建設事務所の実施した調査にて、北広島から千歳川流域長都原野一帯の低湿地の横断が鉄道建設に不適とされていた。上記北海道鉄道も夕張方面と札幌との自社札幌線を介した短絡を目論み、1922年に免許を得ていたが、それは千歳にて分岐する計画であった(*2)。
この当時から国有鉄道内部では、この路線の建設に際しての起点は追分に近く、自然な線形にて夕張線からの直進経路が採れ、経過地の地質も良い千歳が共通認識であったと思われる(*3)。
けれど、法改正を要するゆえ法定線としては北広島-追分間が残り、将来の幹線鉄道に対して広島村(当時)が調査線昇格が明らかとなりつつ在った頃より北広島分岐を主張する根拠となっていた。ここが札幌市の衛星都市として発展するのは後年ことで、この1955年頃には都市圏とは隔絶された農村に過ぎず、幹線の分岐地点化は経済的拠点化を意味した。輸送の基幹が鉄道に在った時代である。
対する千歳町(当時)も千歳分岐の請願活動を展開し、注目すべきは、その請願事由のひとつに空港利用者の利便向上が挙げられていることである。手元にそこまでの資料は無いのだが、1950年代後半の千歳飛行場と云えばプロペラ推進のダグラスDC4やDC6の数往復が飛来していたに過ぎないだろう。専用駅設置までを視野にしたとは思えないが、航空機との連携輸送の萌芽に取れる。市制を視野に入れていた時期ではあるが、自衛隊の基地拡張にともなう人口増であり、ここにも主要産業は存在しなかったのである。
(この項 夕張 (石勝線) 1989 に続く)
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(*1) 追分線ほかの石狩・十勝間連絡線の構成線区とは、鉄道敷設法別表134項の「膽振國鵡川ヨリ石狩國金山ニ至ル鐵道及ペンケオロロツプナイ附近ヨリ分岐シテ石狩國登川ニ至ル鐵道」による金山-紅葉山間、142項の2の「十勝國御影附近ヨリ日高國右左府ヲ經テ膽振國邊富内ニ至ル鐵道」による御影-右左府間である。両線は共に中間の占冠付近を予定経路とし、これらを東西に繋げた北広島-御影間を石狩・十勝間連絡線としていた。調査線名は、石勝線と辺富内線である。調査線昇格の時点で早くも石勝線の名が登場し、既に中間に既設の夕張線の活用も織込まれている。
ペンケオロロツプナイは現むかわ町域穂別付近、右左府(うさっぷ)は日高町のことである。
余談だが、戦前期に鉄道省内では十勝への短絡線を、旧北海道鉄道(2代)が正に金山線として建設した富内線を延長する別表142項の2と想定しており、それは日勝線と呼ばれていた。
実際に1939年より辺富内から着工したが、戦況の悪化にて中止、敗戦にて放棄された。戦後にも1950年代まで日勝線の名は国鉄資料に度々登場する。
(*2) 1922年2月18日免許。1925年3月31日失効。会社は、これを追分線と称していた。
(*3) 鉄道審議会資料が調査線広分線を延長16.5キロとしているのを根拠とする。それは千歳起点の計画距離である。

追分線本来の建設目的であった道都札幌と産炭地夕張との追分を介しての短絡は、十勝連絡の石勝線の一部としての開業後に同線内でここだけの区間運転、千歳-夕張・楓(2004年3月まで)間での普通列車運行に名残を見ることが出来る。1986年3月3日改正までは手稲-札幌-夕張間直通列車も走っていた。
追分からの852Dで到着した気動車は、853Dでの折返まで40分余りを千歳駅2番線(当時)で過ごす。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f4 SC40M filter Tri-X(ISO3200) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

黒石平 (士幌線) 1985

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士幌線の廃線跡に多数が現存するコンクリート製の拱橋群は、工場で製造して架橋現場に輸送せねばならない鉄桁に代えて、現地で調達可能な材料と運搬の容易なセメントを用いることで、1930年代の当時に多くが構想されていた地方開発線の建設費の低減策として試行されたものである。背景には、実現を可能せしめていたコンクリート構造物の設計や施工の技術革新があり(*1)、国立公園内と云う環境への調和も配慮した点も併せて近代土木遺産として評価される所以である。
国鉄精算事業団の保有であったこれらの解体撤去の事態に直面して(*2)、地元有志が遺産価値を認めて保存運動を立ち上げ、最終的に上士幌町が、その内の33基の買い取り(*3)に動いたことにて、これら拱橋群の存在自体が観光資源としても注目されるに至った。もとより行政当局に保存経費の予算化は困難で解体を一時回避したに過ぎぬのだが、それらの中の代表的5橋は、後に文化財保護法に基づく登録有形文化財とされた。
これには、ダム堪水域を保有する電源開発すら財産としていないタウシュベツ川橋梁(*4)が最も注目を浴びると云った皮肉な副作用も伴っていた。

ここには、これら1930年代の築造になるものの他に、1955年8月1日に切替えられた糠平ダム建設にともなう付替線上にも幾つかのコンクリート拱橋が残されている。ダム迂回線の性格から音更川右岸の急斜面に建設され、必然的に山間の谷や沢筋に架橋を要して、延長50メートル級の第一糠平陸橋、下の沢陸橋に中の沢橋梁など10から15メートルの径間を連ねるものを含め、ここにも拱橋が採用されたのである。
その位置から接近も難しく、1950年代半ばの建設にて技術的に目新しいところも無いせいか、土木方面からは注目されず、観光面にも案内パンフレットに国道から遠望される中の沢橋梁が記されるのみである。けれど、景観への配慮と云う先人の意思を継承して、ここにもコンクリート拱橋を多用した事実は、より評価されて然るべきであろう。
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(*1) 無筋による10m径間、鉄筋を入れた32m径間にて、橋梁負担力は乙線並みの活荷重KS-15を実現していた。鉄桁を採用した第一、第二、第四音更川橋梁の負担力は簡易線建設規程に準拠したKS-12の設計であった。
(*2) 実際にいくつかは撤去された。
(*3) 他に路盤跡および隧道の1本を含む
(*4) 水没物件であり、解体撤去を省略したものであるから存在していないと見なされる。

=参考文献=
北海道鉄道百年史 : 国鉄北海道総局 1976-1981
札幌工事局七十年史 : 国鉄札幌工事局 1977
交通技術 : 交通協力会定期刊行物 1955年通巻112号
戦前期鉄道アーチ橋建設工事の計画と技術展開 : 土木学会北海道支部論文報告集 1998年

写真は、急峻な斜面に位置する中の沢橋梁の25パーミルを登る723D、十勝三股行き。周知の通り、列車運行は糠平までである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor200mm/F4 1/250sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

細岡 (釧網本線) 1985

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新製時の朱色5号による単色塗色に復元されたキハ40が「国鉄色」車両として珍重されていると聞けば、それ以前の一般形気動車の標準塗色に永く親しんだ世代としては複雑な想いが在る。それが、ルーラル線区の経営計画とリンクした塗装工程の簡略化による経費削減を意図した塗色であり、財政問題や労使間対立など政治に翻弄された国鉄のモラル低下の時代に重なるからに他ならない。

一部で「首都圏色」とも呼ばれるこの単色塗色は、その名の通り1975年2月に大宮工場を出場した八王子機関区のキハ1061にて試験塗装されたのを嚆矢としている。当時に国鉄は、普通列車向け気動車のイメージアップが目的と説明し、相模線や八高線への運用にて利用者の反応を探った様子である。その結果がどのようなものであったかを知り得ないけれど、その頃に設計の進められていたキハ40とそれと基本設計を同一とする各形式への採用が決まり、稼働中の在来形式車にも順次施工が進められたのだった。
朱色4号に窓回りをクリーム4号とした塗色を見慣れていた眼には、なんとも味気なく見えたものだったが、利用者に強い拒否反応さえ無ければ善しとする既定方針だったのだろう。この新製車群が増備を終える1982年頃には、一般形気動車は朱色5号ばかりとなっていた。
もっとも、かつての国鉄車両は機関車にせよ、客車にせよ「日本国有鉄道車両塗色および表記方式基準規程」によれば単色塗色が基本であり、多色塗色は1950年の「湘南電車」以降(関西急電などの例外有り)のことであるから先祖帰りと云えぬでも無いと思い直しもするものの、どうにももどかしく眺めたのも確かであった。
さらに困ったことには、カラーフィルムに映える色かも知れないが、当時にモノクロで撮れば銀粒子を溶かし込んでアンダに落ちてしまい、プリントには手を焼かされた。

かつての国鉄標準塗色が辛うじて現在に生き延びたキハ52に再現されると、これがその塗色車が存在しなかったキハ40に及んで驚いた。過去の事例に準拠した塗り分けは、窓上のラインが前頭部でその高々運転台により段差の付いてしまうのは惜しいけれど、全般には好ましく、基本塗色に採用して欲しい程である。もちろん、国鉄制定色の制定塗料はとっくに失われて、近似に調合した朱色の色合いは微妙に異なる。
ぜひ、二重窓キハ40でもこの塗色を見てみたいもの、と書いて置く。

朱色5号の5両編成は627D、釧路行き。後追いである。
網走からの2両に標茶で前に3両を連結している。急行列車に限らず標津線運用の関連で長編成となるのが、この区間の魅力だった。単行列車ばかりとなってから、どうにも足の向かない所以でもある。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 & PhotoshopCS3 on Mac.

札幌 (函館本線) 1985

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苗穂 (函館本線) 1988 の続きである

1965年9月25日に札幌-苗穂間は函館本線の3線運転となり、ここには北側・南側の構内側線を併せて5本の線路が並んだ。本線列車運転の3線は北側から、下り線、上り中線、上り線と区別され、上り中線には上下列車が運転された。この際に島式1面が増設された苗穂の乗降場は南側一面が千歳線用、北側が函館本線用に使われたから、その振分けは苗穂の札幌方にて行われ、上り中線の供用により両線列車の並列運転が可能となっていた。苗穂の乗降場の番号付番の3番から6番ホームはこの時からと記憶する。

1967年には白石方で大規模な工事が着工される。
1926年8月21日の(2代)北海道鉄道札幌線として開通以来の線形の残る千歳線を苗穂から北広島までの区間(書類上は苗穂-上野幌間)で複線の別線に付替えとする実質の新線工事であり、それの苗穂から白石までは函館本線の複線と並行させ、内側2線を千歳上下線、外側線2線を函館上下線とする方向別の複々線を構築するものであった。
この別線は1973年9月9日に使用を開始し、苗穂停車場では上記のとおり増設されて島式2面となっていた乗降場の、南側の3・4番線を函館本線/千歳線の小樽方面行き、北側の5番線を千歳方面行き・6番線を岩見沢方面列車の着発とする現行に改められた。豊平川橋梁の架替を含んだこの工事の詳細は後述する。
苗穂の白石方配線は引き直され、ここにも札幌方同様に各線を相互に結ぶ渡り線が挿入された。札幌方の3線と続く札幌の着発線を有効に活用するためであり、この苗穂の特異な配線に就いては、以前の記事 苗穂 (函館本線/千歳線) 1992 で触れている。
この時点以降には、札幌から上り中線を運転の千歳線列車は、そのまま苗穂の千歳下り線(上り運転線)に進入するが、下り線運転列車は苗穂構内に入ったところで渡り線にて転線していた。函館本線下り列車はその逆である。
対して、岩見沢方面からの函館本線上り優等列車は、苗穂白石方のシーサスクロッシングを渡って千歳線上り線に転線する運転が大半で、乗降場を通過後に上り線に直進もしくは上り中線への転線を選んでいた。この3線運転では、上り列車には苗穂構内の千歳上り線が直進ルートであったためであり、函館上り線に入るのは主に停車列車であった。白石から札幌構内まで両線で併行ルートを構成するには、勿論その限りでは無い。

1960年代後半より北海道・札幌市から要請の在った札幌停車場を含む札幌市内函館本線の立体交差化事業は、市、道、国鉄による協議をまとめた1975年の札幌市による原案を翌76年に国鉄が同意して、1977年に北海道が事業計画を認可、1978年11月27日に起工した。
当初の札幌市の提案は発寒川から豊平川までの7.8キロ区間であり、苗穂停車場を含むものであったのだが、鉄道工場や運転区所を地平に置かざるを得ず、出入区線が残って東9丁目踏切を除去出来ないなどから見送られた経緯がある。また、国鉄側には、高架化後の札幌に存置出来ない荷物・郵便扱い施設を、近隣で用地も確保可能な苗穂への移転を要した事情もあった。
(この項 苗穂 (函館本線) 1989 に続く- 参考文献はシリーズの最後に記載する)

札幌-苗穂間の5線区間は、ここの高架線工事期間を通じて維持された。
写真は、苗穂から上り中線を運転して雨の札幌構内に進入する838列車。停車場部の高架躯体が立ち上がった頃である。
岩見沢からのこの列車は、函館上り線より苗穂の場内信号で千歳上り本線に転線し4番線ホームに停車、発車後にさらに上り中線に転線するルートの運転であった。
なお、この小樽-岩見沢・滝川間のシャトル運用は1979年2月1日からオハ51・オハフ51形が積極的に投入され、82年度内に完了していた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/f2.8ED 1/60sec@f2.8 Fuji SC48filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

礼文-大岸 (室蘭本線) 1985

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古くから云われる「名勝(地)」とは、三省堂大辞林によれば「景色の良い土地」とある。国語辞典的にはそのとおりだろうが、法律上は景観に秀でていても「名勝」とは限らない。
名勝を名乗るには、文化財保護法(1950年5月30日法律第214号)に基づく文化庁の基準に合致し、審議会の答申を経て国なり地方自治体の指定を受けねばならない。その基準とは「我が国のすぐれた国土美として欠くことのできないものであって、その自然的なものにおいては、風致景観の優秀なもの、名所的あるいは学術的価値の高いもの」とされている。
この国指定の名勝に総称を「ピリカノカ」として日本先住民族およびその文化にかかわる景観が指定されているとは知らずにいた。最初の指定は、名寄市のクトゥンヌプリに石狩市所在のピンネタイオルシペで、2009年度のことであった。
2011年2月の第三回目の指定にて、これに豊浦町のカムイチャシが加えられた。その上部が「カムイチャシ史跡公園」として整備されている茶津崎である。

ここが先住民族による砦であったことは、1971年の発掘調査にて判明していたらしいのだが、蘭法華岬の難行で自信を付けた(?)翌年のこと、そのような場所とは知らずに登っていた。
比高は30メートルに満たないものの隧道付近からの直登は困難で脇を流れる水流に沿って根元方向に上がっていた小道からイチイの茂る斜面を辿るしかなく、そこにはクマザサの獣道のごとき通路が上部へ通じていたのだけれど、上部に至ると圧倒的なツル性植物の群落に行く手を遮られてしまう。蘭法華の経験から、その重さも厭わずに持参した薮漕ぎ用の鉈が重宝したのは云うまでもない。
そこはイチイとトドマツと思われる混合林に縁取られたクマザサ交じりのツル植物の斜面が延々と、その先端に向けて続き、ようやくのことで室蘭線のトンネル上まで進んだものだった。目論みは海面を前景にした画角だったのだが、ここで力尽きたと書いておく。

「塘路の崖」塘路 (釧網本線) 1982 もそうなのだが、ここも後に(88年のことである)豊浦町によって前述のとおり公園化され、それこそトンネル脇に階段が付けられ容易に到達できるようになった。この時の難行を思うと些か複雑な心境ではある。
列車は3068列車。青函航送当時の高速貨物列車は、その客載車両渡船の貨車積載能力(ワム車換算48両)からコンテナ車の最大16両組成に制限されていて、海峡線運転の現在よりも短い。この列車は14両所定であった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/f2.8 ED 500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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安別仮乗降場 (天北線) 1985

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戦後の北海道の鉄道景観に特異性を与えた存在に「仮乗降場」がある。その中核を成すのは旭川鉄道管理局管内に集中した一群であった。それは偶然では無く、そこに第二代局長として赴任した斉藤治平の発案、尽力によるものである。

1958年発刊の国鉄による鉄道エンサイクロペディア『鉄道辞典』は、仮乗降場を「季節的に旅客の集中する場合等旅客乗降の利便を図るため駅以外の場所に設備した乗降場を云う」と記述している。「駅以外の場所に設備した乗降場」とは奇妙な表現だが、「仮駅との異なるところは、仮乗降場には営業キロ程が設けられず」と続いて、ここでの「駅」とは運輸営業上のそれであり、仮駅と区別の必要からの用語と知れる。
同記述はさらに、それの「設置は本社で行っており、その開設期間や旅客取扱区間等については鉄道管理局長が定める」としながらも、最後段で「現在通勤・通学の利便を図るため、鉄道管理局長かぎり臨時に列車を停車させ旅客の取扱を行っている場所があり、これも仮乗降場または臨時乗降場と通称する」と書く。
敢えての言及は、従来手続きと異なる「仮乗降場」がこの頃までに相当数に存在していたことを示し、それが旭川鉄道管理局による仮乗降場群なのである。「と通称する」の件は、それの正式呼称が存在しないと読め、本社として扱いに苦慮していたことを物語る。

斉藤についての多くは知り得ない。本社からの赴任は1954年半ば頃と思われ、1953年に交通経済社から『国鉄自動車経営論』の著作があり、地域輸送事情に通じていた人物と推定される。
赴任後の管内巡視から、冬期には馬橇すら通行に難儀するほどの僻地の気象条件や交通事情に鑑みて、各所への極めて簡素な乗降施設の設置を発案する。想像の域を出ないのだが、それは斉藤の専門分野と思われる旅客自動車の停留場の発想であろう。且つ簡易停車場としても時間を要する手続きを避けて設置を急ぎ、自身の責任において局独自の施策としてこれを実行したのである。これも推定だが、設廃の局長権限である災害時や工事施工時の臨時乗降場設置手続きを拡大解釈したのではなかろうか。
赴任翌年の1955年に8線区へ39場、1956年には10線区31場を開設し、1960年までに管内12線区へ97場を設置している。
勿論この施策には、この頃までに道内の多くのルーラル線区に運転を開始していた内燃動車の存在が背景にあり、当時の旭川局では、これら新設乗降場を単に「気動車駅」と呼称していた。これは国鉄部内で通常に使われていた用語である。
斉藤は合わせて液体式気動車の管内への導入も積極的に推進し、富良野線の1958年1月25日改正における客貨分離のように本社施策として実現させた例もあり、この際に設けた同線の仮乗降場はまもなくに駅へと昇格している。

この旭川局管内の事例を以て、現在に仮乗降場イコール本社非承認案件、即ち鉄道公報に達の記載されず管理局報での通達により設置とする情報が流布されるが、些か疑問である。中には駅設置基準の推定利用者数に交通不便地を考慮する緩和条項へ照らしても本社の難色を示した案件や、斉藤の手続きを無視した方針への反発も在っただろうが、最終的には承認を得たと見るべきであろう。前記富良野線の例ばかりでなく、早い時期に駅への昇格を果たした事例も存在するからである。乗降場が既存で局による通達も出されており、遡った達を省略する内規が定められたものではないだろうか。
同時期には推定利用者数に大差の無いと思われる案件が、広尾線依田や士幌線武儀のように正規の手続きを踏んで正駅として開業した事例も存在する。
(元沢木仮乗降場-栄丘 (興浜南線) 1978 に続く- 文中敬称を略した)

天北線には仮乗降場の連続する区間が2区間存在していた。ここは、飛行場前が先行して1955年12月2日に、安別は翌56年11月19日改正を以て開設されている。
周囲は見渡す限りの酪農地帯であるが、戦争末期には飛行場前の名のとおり、この周辺に陸軍浅茅野第一飛行場の滑走路が完成していた。牧草地は敗戦にて使われることのなかったそれの転用である。その建設には連行された朝鮮人らの強制労働の歴史が在る。

ロケハンに疲れ安別仮乗降の乗降台で一休みしていると、空冷式単気筒3馬力機関の甲高いエンジン音とともに軌道自動自転車が爽快に通過して行った。閑散線区の線路巡視なら、それに限るだろう。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/500sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

札幌 (函館本線) 1985

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B寝台車が3段式で新製された14/24系特急形客車のそれに対する接客設備改善工事、即ち寝台設備の2段化改造工事は、82年度に当時秋田運転区に集中配置されていた24系から開始され、次いで83年度の品川客車区14系、84年度からの尾久客車区14系と続いた。
これは、74年度の24系(25形)の登場以来、特急運用車として581/583系寝台電車も含めてB寝台設備の3段式と2段式併用おいて、3段式の居住性や他の交通機関との競争力が指摘されており、80年10月改正にて3段式設備の20系固定編成客車が特急運用から撤退したことから計画されたものである。82年11月改正では14系が多くの急行運用にも進出していて、これとの差別化からも急がれた施策でもあった。これにより、ハネ車で16名、ハネフ車で15名と云う大幅な定員減となるのだが、寝台特急に対する需要の低下もそれを可能にしていた。

特急運用車への工事が一段落すると、当時管内に寝台特急の運転のなかった北海道総局により、道内急行列車寝台設備の2段式化が計画され、85年度にオハネ14-5両に対して試作的な工事を施工、85年11月7日の下りから413・414列車<まりも>の4/5号車に組み込んで試用を始めた。
趣味的な興味は、ここでの工事が本州内配置車の例と異なり、3段式への復帰が容易な構造とされた点にある。季節波動の大きい道内輸送に対しては、多客期での定員減が懸念された訳である。この5両中4号車に専用の3両には、これも試験的に清涼飲料水の自動販売機が搭載されたのも他に例を見ない。
その需要は堅調に推移したため、86年度にスハネフ14を含む6両を追加し5号車を寝台車から座席車に置替て輸送力を確保した上で、86年6月30日の下りより全寝台車を2段式車両とした。
編成変更で列車定員を確保したことや、この頃より旅客の昼行特急への転移や都市間夜行バスへの流出による列車自体の需要低下が見られ、多客期輸送にも支障の無く推移し、その期間に計画の3段式への復帰はなされなかった。
したがって、続いて工事の施工された<大雪><利尻>運用車については、この構造は見直され採用されていない。
現在も札幌運転所に在るオハネ/オハネフ24 500番台車は、全てこの試作改造車を種車としているのだが、その上段寝台舟の可動する構造の痕跡は今も残るのだろうか。

写真は、札幌に終着する414列車<まりも4号>。
この年の3月改正で、6号車に予備電源車を兼ねて組成のスハフ14が減車され所定7両編成となっていた。この日はオハ14の増結がある。
札幌駅高架化工事関連にて荷物扱い設備は苗穂に移転しており、[北東航21]のスユ15と[北東航2][函荷1]のマニ50-2両はそこで解放され、ここまでやって来ない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S  1/250sec@f8 Kodak No,12 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

稚内 (宗谷本線) 1985

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1970年当時、宗谷本線への夜行急行317・318列車<利尻2号>の線内での所定編成は荷物車-2両に郵便/荷物車-1両を含む10両組成であった。そこでの最長編成列車であり、乗降場延長が200メートルであった稚内では旭川方組成の荷物車を乗降場に収めねばならないから、後部の座席車はそれを半車ほど外れることになり、2番線側の乗降場が延長されていたのはこれによる。それでも、夏期輸送等で増結があれば旧桟橋方にずれ込まざるを得ず、318の改札時など多くの乗客が構内踏切から1番線上を走って、後部の自由席車の出入台によじ登っていたものだった。

稚内駅は、2009年5月に着工された駅本屋を含む周辺地区の再開発事業により大きく姿を変え、それはKITAcolor(キタカラ)と命名された再開発ビルと一体化した新駅舎として2012年4月29日に最終的な開業を迎えた。
この工事にともない、稚内は2009年10月1日改正を以て1番線の使用を休止し棒線駅となり、これは2010年1月31日にこの1番線を復活して2番線が廃止とされた。乗降場位置は変わっていないが、その旧桟橋方に新駅舎の置かれ、有効長の切り詰められたことで旭川方に延長されており、実質的には若干移動している。

北側となった駅前広場まで旧一番線である本線から線路が駅舎内を貫通して延伸され(但し本線に接してはいない)、そこには2番線終端部に使われていたと云う第二種車止めが、これの寄贈を受けた稚内市によりモニュメントとして設置された。その車止めは、1991年3月16日改正における<利尻>の気動車化により、この駅が機回し線機能を不要とした際に置かれたものであり、近年の構内縮小の産物である。そこには「日本最北端の線路」との看板の立てられていたのをご記憶の向きも多かろう。
このモニュメントにもその傍らに同様の碑が置かれている。これ自体良いアイデアとは思うけれど、それまでは機関車がさらに奥まで入線していたのを知る身には興ざめもする。さらに遡れば、稚内の貨物積卸場はこの北側に在って、線路北端は突き当たりの防波堤に接していたのである。
ところで、碑文には「元の位置に復元した」とあるけれど、そこは旧1番線の延長上だから行政仕事に有りがちな間違いである。

写真は、早くに南稚内から回送され2番線に待機する318列車<利尻>編成である。
改札の開始されるまでは、まだ時間がある。
ここの乗降場と云えば、この林立する柱に支えられた木造上屋が最北の旅情を感じさせていたものだが、片流れ屋根の近代的デザインに取替えられてしまった。なにやら最近の電停上屋然としたそれは少々安っぽく見える。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor180mm/f2.8 ED Bulb@f11 Non filter Tri-X(IAO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

寿仮乗降場-新弥生仮乗降場 (天北線) 1985

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夜の闇を衝いて走る列車は魅力的な被写体に違いない。
暮色や薄明ではなく、夜間である。構内照明の中での駅出発ではなく、駅間である。沿線でそれを待てば前照灯の描くサークルと客窓の灯りで列車は夜に浮かぶから撮れそうに見える。

但し、それには幾つかの条件を考慮せねばならないのは当然であった。
シャッタ速度とある程度の被写界深度の確保にはTri-Xをどこまでも増感すれば良いけれど、ISO12800は35mmフィルムには論外で、ISO6400でもどんな現像を試しても粒子の荒れが大きくてディテイルが崩れてしまうゆえ、この目的にはせいぜい3200が限界と知れた。
前照灯と客窓を写し込まねばならない画角決定も、それの強い光りによるハレーションを避けて俯瞰気味の位置を要し、見かけ上の動きの小さくなるよう列車の移動方向と光軸は浅く交差させねばならなかった。習作を繰返して理解するのだが、光源としての列車周囲の光景は単純であること、加えて前照灯の光束を明確化出来れば、それに越したことはない。この条件の一例には、積雪線区での降雪時があった。

写真は、激しく降り積む雪中に、第八頓別川橋梁(118M)付近で捉えた303列車<天北>。
このカテゴリでは結局のところ満足の往くカットは撮れずに終わっていて、これも習作である。
編成の存在を捉えるべくR400の曲線を選んだのだが、列車速度は70km/h以下に落ちているものの、フィルム上での見かけの動きは速くて1/60秒ではブレを生じてしまっている。窓明りも明確でない。

このカットから20年を経て、ディジタル撮影のもともと集光性の高い撮像素子と画像エンジンの性能向上はISO12800を常用感度域に含むに至り、それは銀塩の限界を軽々と越えている。夜間の走行写真は、もはや当たり前の撮影領域だろう。
コンテもある。アイデアもある。けれど、撮れる機材を手にした頃に、撮りたい列車はとっくに走り去った。そんなものである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/60sec@f4 Non filter Tri-X(ISO3200) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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