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"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

五稜郭 (函館本線) 1982

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五稜郭 (函館本線) 1982 から続く。

青函間貨物輸送量が連絡船17運航による年間440万トン台に達した戦後の1950年代以降に、有川航送場は航送貨車の70パーセントを扱うようになる(*5)。五稜郭操車場も拡張の行われてもなお操配能力が不足し、1967年度よりここで組成・分解を行わない有川発着列車が設定され、この通路線に本線列車の直接乗入れが始められた(*6)。これに対しては、操車場場内で上下着発線と接続する亘り線の設けられた他、有川には着発線と機回線が追設され全区間の軌道強化も行われた。
また、函館構内貨物積卸線へのコンテナ施設設置にともない、そこの荒荷線の航送場南側用地への移転もこの際に手配された事項である。なお、その用地は有川3岸(函館5岸)を築造しての航送場拡張に鉄道省が確保していたものであり(*7)、戦後まもない1946年3月から1948年2月まで実施の米軍供与のL.S.T(上陸用舟艇)による貨物輸送(Website参照)の際に積替えの荷役線が敷設され、1950年にはそれを利用して五稜郭の貨物扱の一部が移転していた。

青函間の年間貨物輸送量は1971年の8,553,033トンを最高に以降減少の一途を辿る。国鉄がヤード系輸送から全面撤退した84年2月1日改正を以て五稜郭操車場は使用停止となり、合わせて有川航送場も閉鎖、当然に通路線の運転も無くなった。けれど、航送場南側には1980年5月から従来の設備を増強して函館地区各駅の貨物集約施設が稼働しており(*8)、調べ得なかったのだが、70年代に線路の撤去されていた五稜郭本屋構内からの専用線路盤への再敷設は、これに替えてのことと思う。桁の撤去され、永らく築堤と橋台の遺構が残されていた乗越部は近年に西側部分が宅地と化して消滅した。
有川航送場は久しく荒れた姿を晒した後に埋め立てられ現存しない。貨物施設の方は1987年4月の国鉄分割・民営化に際し、五稜郭貨物駅と称して日本貨物鉄道の運営に承継され、2011年3月12日付にて函館貨物駅と改称したのは周知の通りであるが、法規上には現在も北海道旅客鉄道五稜郭停車場の一部であり財産上も同社に帰属する。
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(*5) 1953年のダイヤで青函航路17運航中、函館駅若松桟橋が8運航で180両、有川桟橋が9運航で420両であった。運行数が半々での差は、勿論車載客船/車両渡船(貨物船)の差異による。64年度より津軽丸形の客載車両渡船が就航すると差は縮小した。
(*6) 1968年10月改正ダイヤで急行貨物等5往復の設定が在った。
(*7) 有川3岸は計画時より車両航送設備を持たない機帆船岸壁とされていた。
(*8) 部内では五稜郭本屋駅と区別して(五稜郭)貨物駅ないし有川(貨物)駅と呼ばれた。1980年10月1日には函館構内からコンテナ積卸場も移転した。

夏の始めの朝を函館に回送される単機は、この時間に青函151便の船腹から牽き出されつつある3051列車の牽引機である。通勤時間帯前で国道5号線も閑散とした光景には単機が似つかわしい。
五稜郭は函館地区の北部工業地域に位置して多くの専用線が接続していたけれど、多くは戦中から戦後のことである。戦前からの事例は、北海道瓦斯会社と東京人造肥料会社であり、いずれも1924年9月1日に行われた函館-五稜郭間の線路移設にともない函館から移管されたものであった。
3本の線路の内、真ん中の下り線がその移設線であり、左の上り線は1942年12月27日に使用開始の増設線である。そして右端が三井東圧肥料(旧東京人造肥料)函館工場専用線を分ける貨物側線で、その分岐点も見えている。
この専用線は1907年に設置され、その当時には旧線の亀田構内から途中に北海道瓦斯専用線を分けて延々と本線に併行し、おそらくは左画角外で分岐して画角中央を左右方向に横切っていたものだろうが、勿論痕跡は全く見られない。これを新線分岐に付け替えるに際して、五稜郭方からの分岐としなかったのは鉄道省の五稜郭工場が支障したためだろうか。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

五稜郭 (函館本線) 1982

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函館本線の上り列車が桔梗を過ぎてしばらくすると整然と住宅の建ち並ぶ区画が左車窓に続く。かつて、そこには多くの線路が敷かれて上り本線はその東縁を通過していた。通称の五稜郭操車場である。また函館から下り列車に乗れば、五稜郭の構内を出るあたりで江差線の本線の向こうに分岐して往く単線の線路が見える。その先には函館3・4岸(*1)と呼ばれた青函航路貨車航送の有川航送場が存在していた。これら施設は五稜郭停車場の構内拡張とされて、ここは貨物輸送の重要拠点駅だったと知れる。

1925年8月1日を以てとされる青函間貨車航送の開始以来に貨物輸送量は激増を続け、同年度の年間464,632トン(*2)に対して1935年度には957,523トンと倍増、これには船腹の増強や民間機帆船の活用、函館・青森の陸上設備の改良にて対応して来たが、両駅とも能力は限界に達しつつあった。加えて、函館側においては1941年度に戸井線(未成)・福山線(後の松前線)の全通が予定され、北海道庁の第二期拓殖計画に基づく函館港の拡張も1946年の完工を目処に着手されており、貨車操配の増加は目に見えていたのである。これに対して計画立案されたのが、拡張余地のない函館構内に替えて五稜郭-桔梗間への操車場設置および港町地先有川地区海面への航送埠頭の築造であった。その構想自体は貨車航送開始の直後より語られ、1930年代半ばまでには具体化されていたと思われるのだが、実現を急がせたのは1937年に開戦した日中戦争から太平洋戦争の戦時下輸送であった。この「陸運転換」と呼ばれた国策と、両設備の使用開始への経緯については、Websiteの記事「戦時下の陸運転換と函館/室蘭本線の輸送力増強 」に詳述している。

有川航送場へは当然に五稜郭操車場との間にも通路線が設けられた。上下仕訳線の函館方で分岐し、R=240で右に回りながら1/80勾配(12.5‰)の盛土を構築して江差線と予定された函館線の増設線を乗越え、1943年9月に敷設とされる五稜郭から浅野町岸壁までの専用線(*3)に並行して有川に至る2キロ余りである。これには通路線としてばかりでなく、道庁や函館市が計画していた埋立地区への臨港線機能も担うべく航送場手前から南北への分岐線も計画されており、特に南側へは若松埠頭の拡張計画に前記専用線を海岸沿いに延長して、1927年からそこに存在した橋谷株式会社(*4)の倉庫専用線に接続するものであった。浅野町の岸壁へは敗戦間際に半高架式石炭積出桟橋が設けられ機能したとは記録にあるが、万代埠頭をへて若松埠頭(後に中央埠頭)への延長の時期は確認出来なかった。有川分岐の油槽所への専用線も含めて戦後のことであろう。北側への分岐も、これも戦後に貯木施設への専用線に実現した。
(この項続く)
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(*1) 函館構内若松岸壁1・2岸からの通し付番である。稼働当初には有川1・2岸と呼称された。
(*2) 輸送量データの出典は、青函船舶鉄道管理局の「航跡-連絡船70年の歩み」(1977年)による。以下同じ
(*3) 所有者・敷設目的は調べ得なかった。ここの倉庫街に通じたものと推定する。
(*4) 倉庫業者である。現在も同所にて盛業中。

この通路線は勿論、操車場でも有川桟橋でも写真は撮っていないものだから、本屋構内でのカットをご容赦願いたい。
列車は大沼からの通勤通学列車の624D。
ここでの貨物扱いは1980年5月に有川へ移転して、既に積卸線・積卸場ともに撤去されていた。操配線の貨車は三井東圧肥料(旧東京人造肥料)函館工場専用線への配給待ちである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

初山別 (羽幌線) 1982

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羽幌線は、貨物に手・小荷物運送上の通過禁止線区であった。1958年10月18日の初山別-遠別間の開業による羽幌線の全通に際して採られた措置だが、「通過禁止」と云っても貨物列車の運行や小荷物輸送のなされなかったのでは無い。これは、その前年に全通を果たした大糸線への適用が最初の事例であり、国鉄部内で「大糸線方式」と呼ばれた。
国鉄の貨物や小荷物運送の制度は些か複雑なのだけれど、それは原則的に実際の輸送経路に関わらず、発駅着駅間の最短経路を以ての運賃計算を原則としている。鉄道がネットワークを形成して往く過程にて、必ずしも効率的な輸送が最短経路とは限らない貨物や小荷物輸送に運賃計算の煩瑣を避けて定められた制度であり、1918年9月に一部の輸送経路に対して始めて明文化され、1921年10月の運賃改定に際して全面的に採用されていた。
これを大糸線の例で示せば、首都圏から北陸方面への輸送は引続き本線系統の信越・北陸線経由でなされるのだが、それの開通により実際には極めて輸送量の小さい(特に信濃四ッ谷以北区間)この線区が運賃計算経路となる。この時期での建設線は幹線間の連絡・短絡線とは云え地域交通線ばかりで、一方では幹線輸送力の増強に莫大な投資を要していた国鉄とすれば、それによる運賃収入の低下は是非とも避けねばならない事態であり、これには貨物運送規則、荷物運送規則の先の定めに、特定線区を運賃計算経路としない例外規定(*1)を設けるに至ったのだった。
この羽幌線は、それの二つ目の事例とされたもので、石狩沼田-幌延間通過輸送に限り従来通りの留萠・函館・宗谷線経由の運賃収受としたのである。従って、石狩沼田-増毛間の留萠本線区間を含む線内相互発着運送は含まれず、この区間に限ってみれば、当時でも対象となる貨物や荷物の着発は限られたであろうから、どれほど損失を補充したものかは疑問ではある(*2)。
けれど、設備投資の財源確保に直面していた国鉄は1961年10月改正時点にて、建設線のみならず既存線区の多くにこの扱いを拡大した。荷物輸送から全面撤退し、車扱い貨物もほぼ壊滅した現在には忘れられた制度でもあり、参考までに64年10月時点での指定線区・区間を以下に掲げておく。

羽幌/札沼/花輪/米坂/水郡/両毛/八高/相模/川越/越後/高山/飯山/宮津/加古川/赤穂/播但/姫新/津山/因美/福塩/木次/九大/筑肥/佐賀/和歌山/飯田/身延/大糸/小海/宮之城/(八王子-多治見間)中央線経由/(直江津-多治見間及び軽井沢-多治見間)信越・篠ノ井・中央線経由
以上30線区と3区間が存在した。
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(*1) 線名ないし区間名を示し、これを当該線区の営業条件と定めたのである。
(*2) 具体例を挙げれば、増毛発幌延着は羽幌線を運賃計算経路とするが、増毛発稚内着は留萠・函館・宗谷線経由で計算する。実際にも貨車はこのように操配され、輸送量の小さい線区の負荷を回避する施策でもあった。但し、荷物輸送もこの限りであったかは少し怪しい。

写真は初山別沿岸の短い夏を往く8804D<天売>。
夏臨期に札幌-羽幌間へ設定のこの臨時急行は、7月下旬から8月半ばまでは旭川発着編成も併結して4両組成となり、旧盆期間には幌延まで延長運転されていた。夏の最繁忙期をわざわざ選んでの渡道は、それが目的のひとつであった。この線区に在っては堂々の優等列車である。後追いにて前部2両が旭川行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

標茶 (釧網本線) 1982

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標茶町字多和の京都大学北海道研究林官舎に隣接した線路端に一つの木柱碑が建てられていた。標茶停車場の磯分内方、東釧路起点47キロ付近の線路用地である。
それには「国鉄機関士山下利夫殉職之地」とあり、1945年7月15日午前7時頃、この地点で米軍機により攻撃を受けた上り列車に乗務し、殉職した北見機関区斜里支区所属 山下利夫機関士(当時に26歳)の霊を慰めるものであった。(*1)

太平洋戦争末期の7月14日と15日には道内各地への空襲が集中的に行われた。三陸沖を南下しつつあった米国海軍第38任務部隊として作戦行動中の第一機動艦隊第一航空戦隊の5隻の空母から飛び立った艦載機による攻撃であった。その本来の攻撃目標は北海道内全ての飛行場にあったのだが、両日とも悪天候にて大半が視認の出来ぬため、臨機に市街地や工場、港湾、鉄道、電波施設、灯台など攻撃機から眼についた施設が目標とされた。民間輸送船である青函連絡船が壊滅的に被災したのも、この両日のことである。
標茶町市街地を襲ったのは、空母レキシントンを北緯40度50分/東経144度58分の位置から午前3時30分に発艦した第94飛行隊戦闘爆撃機分隊の16機であった。12機が250ポンド爆弾1発と5インチロケット弾4発を積んだ攻撃機であり、3機の護衛機と1機の写真撮影機を随伴していた。美幌飛行場の破壊を第一の任務としていたのだが、厚岸湾上空から内陸に進入したところ、屈斜路湖付近にて対空砲火に備えた回避行動を取る内に厚い雲に地上を見失ったため、南転して第二攻撃目標であった標茶北方の工場を爆撃した後に市街地に向かい、道路、橋、駅、列車、倉庫、無線施設などに無差別にロケット弾および機銃掃射を行ったものであった。市街地に軍事施設のないことは米軍も承知していたと思われ、明らかに駄賃的な民間人攻撃である。偵察に軍需工場と目されて爆撃目標となった工場も、実際には製粉工場(*2)であった。
この日の第94飛行隊の報告書によれば、山下機関士の乗務した(と思われる)機関車にはロケット弾2発が命中、爆発して全壊と在るが、実際には列車至近への着弾にて機関車が脱線転覆したところへの機銃掃射によりボイラから高温蒸気が吹き出し、それをマーカーにされてもう1発が命中した模様である(*3)。山下機関士は全身に熱傷を負い乍らも自力で這い出し、多和の陸軍医務所に搬送されるも同日深夜に亡くなった。

標茶町が空襲を受けたのは後にも先にもこの一度きりであり、山下機関士は出征軍人を別にすればここで唯一の公務中民間人の戦争犠牲者であった。それゆえ、なおさらに関係者や人々の記憶に残り、アジア太平洋戦争終結翌年と云う早い時期に慰霊の墓標の建てられたものであろう。以来毎年の旧盆には、標茶機関区員など国鉄関係者が親族を招待し供養が行われたと云う。
標茶町の資料には、この木柱碑の建立を1974年7月15日としているが、おそらくはこの29年目の供養に建替えられたものと思われる。歳月を経て標茶の運転区所も無くなり、残念乍ら木柱は撤去されてしまっている。
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(*1) この列車攻撃では乗客の朝鮮人1名の死亡も記録されるが、現在までその氏名は明らかになっていない。
(*2) 亜麻工場との記述もある。
(*3) 第94飛行隊の報告書には破壊に至らなかったもう1台の機関車攻撃が記載されるが、これに日本側の記録は無い。

=参考文献=
北海道の鉄道碑めぐり : 太田幸夫 (鉄道ピクトリアル 通巻541号所載)
北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録 : 菊地慶一(北海道新聞社 1995)
標茶町史 通史編第二巻 : 標茶町史編纂委員会編 (標茶町 2002)
米軍の攻撃詳細は、無署名によるWebsite「連合国海軍による日本本土攻撃 」を参照させていただいた。

標茶駅の夏空に浮かぶ旅客上屋。70年前のそこにはグラマン攻撃機の機影があった。
戦前の治安維持法に匹敵する特定秘密保護法制定、道徳の教科化など教育への国家関与強化、独善的外交政策等、戦争へと走った1930年代に酷似する。好戦国家へと進む極右安倍政権の策動は阻止せねばなるまい。
山下機関士の、そしてひとりの半島出身者の冥福を祈る。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

糠平 (士幌線) 1982

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十勝川水系の発電計画による音更川への糠平ダム設置にともない、士幌線が帯広起点53K850M付近から同66K360M付近までの区間で実延長14K850Mの付替新線に切替えられたのは1955年8月1日のことであった。
この新設線は、本来ダム建設の事業主体である電源開発株式会社の責を国鉄が受託したもので、1953年12月10日に両者間で覚書きが交わされ着手するも、年の明けた1月10日の着工から1955年9月に予定されたダムの堪水開始までに既設線の撤去をも含んで、路盤工事に1年半余り、線路敷設等の開業関係工事に2ヶ月程の工期しか許されぬ工事となった。
実は、これとは別に起点58キロ付近に建設されるダム躯体工事に支障する区間の仮付替も行われていた。それは、起点57K430Mから58K550Mの区間をダム左岸基礎地盤の斜面に延長385メートルの隧道を掘削して迂回する線形であった。1953年5月中に着工して年内には供用したと思われるのだが、ダム完成時には放棄するにかかわらず隧道まで含む仮線を建設した電源開発側の事情は分からない。国鉄側の資料によれば、この仮線の建設要請は1953年2月24日に電源開発の糠平建設所長よりなされ、付替新線のそれは同年3月13年に同社総裁より国鉄総裁宛に出されたとある。国鉄の工事受託の裁可は共に5月9日であった。

堪水域に在って水没した旧糠平駅は知り得ない。Web上に検索したそれは針葉樹の原生林に囲まれた好ましい木造建築と見て取れ(例えばひがし大雪アーチ橋友の会のサイト)、1934年に指定された大雪国立公園内を意識し、また糠平温泉への入口でもあった駅舎は簡素ながらもモダンな造りである。釧網線の川湯にせよ、この時代の観光駅舎は洒落ていた。
駅前には音更川が流れ、そこに架けられた木造の簡易なトラスで補強された橋を渡ってのアプローチは体験してみたくなるロケーションである。
広場に停まったボンネットバスは温泉とを結ぶものであろうか。糠平温泉はここから糠平川の広い谷を上った標高差100メートルばかりの原生林の斜面に存在した湯治場だったはずである。緩い斜面とは云え、駅からは原生林が遮って望めなかったと思え、その様子は1955年6月18日に米軍によって撮影された空中写真に見える。付替線は路盤工事を終え、堪水域の樹木の伐採も完了しつつあった時期だけれど、それら工事の開始前の原生林に覆われるばかりの様子が伺い知れる。
駅は開業から2年間程は終端駅であったから機関車の駐泊所が設置され、同時に開かれた営林署の土場までの専用線も有していたようである。

写真は、付替線の不二川橋梁(l=130M)を渡る726D、帯広行き。正午も間近と云うに北の光線はこんなに低い。
背後の湖面が糠平川の流下し、旧駅への道路の通じていた谷である。
新駅への移転に際して、そこの駐泊施設は十勝三股に移設されだが、営林署の積出線は維持された。

=参考資料=
士幌線の線路付替工事について: 交通技術1955年10月号(通巻112号)所載 交通協力会

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初山別 (羽幌線) 1982

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国鉄の保有する気動車が5000両の大台に達したのは、1968年2月14日に67年度本予算計画車の追加として製造されたキハ58 1509-1511の3両の日本車輌名古屋工場からの出場により、この日工場では国鉄による記念式典が挙行された。5000両の中核を成した、このキハ58系列車は1969年5月まで増備が続けられ、その総製造両数は1818両に及んだ。
国鉄はこの系列を以て全国への気動車急行(準急)網の整備を進め、1968年10月の改正はそのピークに違いないが、それは同時に陸上輸送の基幹としての鉄道の終わりの始まりでもあった。
気動車による優等列車網は、一般型形式使用の所謂遜色急行を含めて地方幹線は元より、かなりのルーラル線区にまで及び、道内においても札幌と、或は支庁所在地とを結ぶネットワークが支線区末端まで形成されていた。それの無いのは一握りの線区に過ぎぬ程であった。

羽幌線の優等列車は1961年1月15日より小樽(上り札幌)-築別間に運転を開始した準急<るもい>に始まる。60年10月1日改正ダイヤにてスジだけは引かれたものの、車両の新製出場を待っていたものである。函館本線内は<かむい>への併結にてキハ22の1両が運用された。支線区直通列車としては早期の運転開始であり、羽幌線沿線からの道央への用務客の利便を図っての設定は、日本海岸業務都市である留萌に炭礦で活況を呈していた羽幌地区の重要視されたものであろう。
翌62年5月1日には、これを増毛着発に改め、羽幌線内には幌延-築別間を延長した<はぼろ>が種別を急行列車として設定され、函館本線内を同時に設定の名寄回り札幌-遠軽間<紋別>と併結した。これは、札幌-網走間<大雪>の加わった時期も含めて、86年11月1日改正での列車廃止まで続いた。2両に増結された編成の1両には配置の始まったばかりのキハ27が使われたのは、急行列車としての面目だろうが、一方のキハ22の置替は66年10月改正を待たねばならなかった。
編成が3両に増強されるのは80年10月1日改正でのことで、道路網の整備も終わり鉄道への旅客誘発効果の期待出来ない時期であり、それは道内幹線急行の特急格上げや廃止による捻出車の活用とも云え、遅きに失した感がある。ともあれ、66年10月改正から併結していた留萠回転車を延長運転した多客期の最大4両組成も見られたのは、この頃である。
この<はぼろ>に限らぬが、乗客専務の車掌に車内販売の係員が乗車したその姿は、キハ56/27気動車末期の状況やルーラル線区最後の日々からは想像もつかない程の、堂々の優等列車であった。
写真は、羽幌線撮影の核心とも云えた初山別陸橋での4802D<はぼろ>。北の低い朝日が海岸段丘の谷を通してステージライトになる。

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様似 (日高本線) 1982

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国鉄自動車の日勝本線/襟裳線は、1943年8月1日より乗合自動車を営業していた民間の日高自動車を買収して開設されたものである(1943年7月27日鉄道省告示209号)。この日、札幌鉄道局室蘭管理部に現業機関-様似自動車区が置かれて、本様似-庶野/歌別-襟裳間で運輸営業が開始された。営業範囲は旅客・手小荷物は勿論のこと貨物輸送も含むものであった。
ここへの国鉄自動車の進出は、鉄道敷設法(1922年4月11日法律第37号)別表の133に在る「膽振國苫小牧ヨリ鵡川、日高國浦河、十勝國廣尾ヲ經テ帶廣ニ至ル鐵道」の鉄道未開業区間を先行する使命に依っており、庶野から広尾に至る区間は戦後の1946年11月25日に開業し様似-広尾間が全通している。

戦後も1950年代ともなれば観光需要も回復し、輸送状況も安定した国鉄は1956年に北海道周遊券を発売する。この有効期間の長く格安の乗車券は学生を中心とした層に受け入れられ、後に「カニ族」と呼ばれた貧乏旅行者を生み出すに至った。登山や野外活動経験者であった初期の「カニ族」達は既製の有名観光地に飽き足らず、離島や北辺の岬など「最果て」を指向して襟裳岬もその目的地のひとつとされた。
国鉄もこれに呼応して、襟裳線の襟裳から灯台への延長を灯台-庶野間の一部として1957年7月18日に開業し、灯台経由での周遊を可能にしていた。
こうして観光地として注目される中で、進みつつ在った気動車の配備を背景に、この自動車線に接続する観光列車-準急<えりも>が1959年6月7日より札幌-様似間に設定される。もっとも日曜のみの運転は(当時に週休2日制は存在しない)道内客の日帰り旅行の利便を図ったものではあった。
翌1960年4月22日にはこれと逆時間帯、即ち日高本線沿線から札幌方面への往復に定期運転の準急<日高>の運転が開始され好評を以て迎えられた。そして、1963年6月1日の改正にて<えりも>を定期列車とし、1966年6月1日改正で<日高>もこれに改称の上昼間時間帯に1往復を増発として<えりも>の3往復体制が確立、これは1986年11月1日改正における廃止まで引き継がれた。

当初のキハ21での運転は定期化時点までにキハ27(56)に置替られて、以後その使用が永く続いた。運転区間全般が概ね平坦線ゆえ機関1台車が所定であった。
1985年3月14日改正では配置形式の関連から所定をキハ56の2両組成とするも実際にはキハ40の入ることもあり、1986年3月3日改正以降は苗穂機関区から苫小牧機関区運用に移管され、同区キハ40と共通運用が組まれて、それの2両編成が急行列車として運転された。千歳線内では同区間の快速列車よりも所要時分を要したから、使用車両のみならずこの点からも堂々の遜色急行と云えた。

写真は、様似川橋梁を渡る703D<えりも3号>。
様似 (日高本線) 1969 と同一位置からの13年後である。背景の市街地はほとんど変わっていない。その間にこの丘へは道路が付けられて容易に登れたのだが、橋梁近くに倉庫らしきものが建てられてしまい、画角の邪魔をする。

苫小牧で本線系統列車との解結の永く続いたこの列車の、そこでの構内配線からの特徴的な運転については 厚賀-大狩部 (日高本線) 1984 に書いた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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白符-渡島吉岡 (松前線) 1982

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日本近海を回遊するクロマグロは、5月から6月に噴火湾そして積丹半島付近を北限に北上し、同地に滞遊して10月から南下を始めると云う。津軽海峡もそのルートであり、1800年代後半から主に下北半島北辺一帯で定置網により漁獲されていた。それは豊漁で一日に数百尾の水揚げも珍しく無かったらしい。
これほどの資源量が続いたとも思えないが、1900年代以降も一定の漁獲の在ったそれの極端に低下するのが1970年代以降である。学術研究のなされたでは無いようだが、青森県大畑町の漁協関係者によれば青函トンネル掘削工事の影響と云う。
同漁協のデータでは、トンネルの本抗工事に着手された1971年から津軽海峡での漁獲高は減少傾向を見せ始め、先進導抗が海峡中央部に達した81年頃から極端な低下を示し、本抗の貫通から88年3月の開業時期にかけて底を打った後、徐々に回復しながら90年代半ばに至って驚異的に復活を果たしている。大間の一本釣りによる漁がマスコミを通じて注目されるのは、この時期である。
このスズキ目の回遊魚は、それがゆえに微細な振動にも反応するらしいのだが、海底下100メートルで行われた工事振動の影響にて海峡の通過を回避したことには驚かされる。

下北側の大間周辺に続いて、北海道側漁獲基地の戸井近辺も「戸井マグロ」としてブランド化に成功している。もとはどちらも津軽海峡のマグロである。近年では西側の海域での漁獲に松前と津軽半島の小泊が名乗りを上げて追随している。その漁には、福島や白符、吉岡からの出漁もあるようだ。

写真は、福島町宮歌の集落を眼下に宮歌川橋梁(164M)を渡る4823D、松前行き。
後位側のキハユニ25は道内閑散線区の気動車化に際して1958年に6両が製作され、キハ21の基本設計により「バス窓」車である。この江差・松前線と日高本線に長く専用された。早い時期に1両を火災事故にて失い、1962年に代替で追加製作されたものの、それはキハ22に準拠して別形式程に外観が異なる。この1両は天北線にて運用された。

松前線へは1981年の冬に初めて入り、五万分の一地形図で当りをつけて白符-渡島吉岡間に降りた。翌冬の再訪では松前までロケハンした上でも、やはりこの区間を選んでいる。
その地理的位置により車窓に津軽海峡から日本海を見る線区の印象があるが、実際には福島峠に吉岡峠の山越え区間が長く、海沿いとなるのは、この白符-渡島吉岡間に渡島大沢付近の一部に限られていたのである。
ここは、わざわざ25パーミルの勾配を設け、海岸線を避けて20メートル程の施工基面を保つ縦断線形が選ばれていたから、谷には高い橋脚で架橋され、その下の小さな集落とともに良い被写体になっていた。

参考資料 : 海洋政策研究財団ニューズレター 2001.09.20発行

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

千歳 (千歳線) 1982

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かつて線路中心線が直線であった千歳停車場の前後区間は、現在では苗穂方にはR1000の左曲線が、場内のR1000/1200の右回り曲線を経て沼ノ端方に再びR1600の左曲線が入る。
すなわち、北西方向から南東へ走る線路が停車場構内のみ、やや北東へ膨らむのである。云うまでもなく、ここの高架化にともなうものであり、地上の旧駅に在った貨物側線や機関車駐泊施設跡を高架駅用地に転用したために生じた線形である。何れの曲線も、ここでの高速運転には直線と同等の扱いにて支障しない。

千歳の地上旧駅は、駅本屋側乗降場の上り本線に島式乗降場に接していた中線と下り本線の2面3線で、その外側に下り1番線と陸上自衛隊東千歳駐屯地と航空自衛隊千歳基地への専用線を分岐していた関係での5線の貨物側線が続き、構内南端には機関車駐泊所を持っていた。急行列車の停車に対応した乗降場は長い有効長と記憶する。
火災に依る焼失を経て1954年に建築されたと云う駅本屋は、直線主体の近代的デザインが好ましい建物であった。そこは上野幌-北広島間に介在した急曲線と勾配に対する補機の解結駅だったから、改札をくぐれば苗穂機関区のC57あたりを目にすることが出来た。夏の強い日差しの中、石炭の煙の流れ来るホームで函館行き急行を待ったのを思い出す。これを目撃しておきながら1枚も撮っていないのは、些か悔やまれる。
当時に札幌の経済圏はここに及ばず、1968年10月改正ダイヤで始発から7時台までの札幌方面行き普通列車は僅か3本が設定されるに過ぎない。1978年10月改正に至っても、それは5本を数えるのみであった。

高架新駅は旧下り1番線に隣接して建設され、その着工は1978年8月のことである。現在の駅前広場は、1980年7月10日の新駅移転後に撤去された旧駅本屋の跡地であり、それと旧乗降場分が拡大されたことになる。
写真は、高架化された千歳を通過する4090列車。コキ/コキフ50000にて組成された特急貨物列車Bに指定の青函航送を経ての梅田行きである。
高架線に続く、軌道スラブを予想積雪線まで嵩上げして設置する閉床式貯雪構造は、同時期に設計の進められた東北新幹線をプロトタイプとしている。後方に苗穂方のR1000の左曲線が見える。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

姫川信号場 (函館本線) 1982

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常紋信号場 (石北本線) 1971 の続きである。

戦後に、公共企業体「日本国有鉄道」の発足に際して、国有鉄道建設規程は1949年5月31日運輸省令第15号にて日本国有鉄道建設規程として引き継がれる。従って「信号場」と「信号所」の並立は戦後も続いたのである。
前回記事の繰り返しになるけれど、ここ姫川のごとく列車交換や退避に用いられ、必然として場内/出発信号機の設置の有るのが「信号場」であり、上下の場内信号機の内方がその構内となる。
対して、1) 停車場間本線上で閉塞境界となる線路分岐点や、2) 停車場間の可動橋や他線との平面交差箇所、3) 通票または票券閉塞式施行停車場間を2個以上の閉塞区間に区分する地点などに設けられたのが「信号所」である。ここには列車の停車(停止ではない)の必要が無く、よって内方を掩護する閉塞信号機が設置されて構内が存在しない。
1) は前記事にも挙げた奥羽本線の滝内をはじめ例は多く、2) の代表的例に佐賀線の昇開橋-筑後川橋梁に存在した筑後川がある。3) の例も存在したであろうが把握していない。これにて、通票閉塞の単線区間でも同方向に複数列車を続行運転出来た。
この両者の混同/用語の誤用は、主に1) の存在に生ずるものであろう。そこに停車の必要があれば外観の同一の信号機が場内ないし出発信号機と呼ばれて、そこは信号場に区分されるのである。
このように建設規程上では明確に区分された「信号場」に「信号所」なのだが、当の国鉄においても運転取扱規程では信号所は信号場に含められていた。そこに信号機の存することは運転上変わりないからである。従って運転局の作成する列車運行図表には、法規上「信号所」にもかかわらず信号場と同一に表記されていた。
なお、信号所を英文表記でのSignal Cabin、駅構内などでの信号テコ扱所(の建物)を指すとする情報も在るが誤りで、国鉄ではこれを信号扱所と云っていた。

一方、国有鉄道以外の鉄道線、すなわち大手を含む多くの私設鉄道線では戦前戦後とも、1919年4月10日法律52号の地方鉄道法と同年8月13日閣令13号による地方鉄道建設規程に準拠して建設/開業している。それら法規に「信号場(所)」の直接定義条項は含まれないのだが、法の第15条、規程の第23条に停車場と並立して「信号所」との文言が在り、国有鉄道建設規程での信号場/信号所双方に相当する施設が信号所と解せられる。
1969年3月29日の帝都高速度交通営団東西線の西船橋までの延長開業時に、駅としての開業を保留された現在の妙典は下妙典信号所を名乗っていたし、箱根登山鉄道の出山/上大平台/仙人台はそれぞれ信号所であった。道内でも美唄鉄道に東美唄信号所が路線廃止まで存在していた。鉄道会社によっては、それを信号場と呼称していたことも在るのだが、あくまで法規上には「信号所」である。
この鉄道線上の同一機能の施設に対して、国鉄の「信号場/信号所」と私鉄の「信号所」の混在が混同/用語の誤用に一層の拍車をかけたとして良いだろう。

けれど、その並立時代も1987年4月1日に終わる。
国鉄の分割・民営化に際して、日本国有鉄道建設規程も地方鉄道建設規程も廃され、それは鉄道営業法第1条規定に基づいて定められた1987年3月2日運輸省令第14号普通鉄道構造規則に一本化され、そこには「信号場」と規定されたのである。したがって、現在鉄道路線上に「信号所」は存在しない。ほぼ全てが「信号場」である。
誤用の生ずる余地は無くなったはずなのだが、「ほぼ」と付したのには理由がある。極めて少数ながら、実は「信号所」が存続しているからだ。
(この項、内地版の 鵯島信号所 (富山地方鉄道・軌道線[呉羽線]) 1984 へさらに続く)

ここ姫川信号場も、1913年8月1日に信号所として設置されている。この開通10年後と云う早い時期は、R300曲線の連続する20パーミル勾配の宿野辺(現駒ヶ岳)-森間の13キロが、列車増に対して当時の非力な機関車には早くも隘路と化していたゆえであろう。
写真は、駒ヶ岳を背景に雨の信号場へ進入する6201D<すずらん1号>。
<すずらん>系統は、80年10月1日改正にて既に定期運転は消滅していたが、この当時でも季節2往復の他予定臨のスジで3往復の設定が在った。かつての長大編成は姿を消して最大でも5両組成と記憶する。そのスジは函館運転所に投入された14系客車での運転と共通使用にて、機関車牽引列車の速度定数で引かれていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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