FC2ブログ

"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

倶知安 (函館本線) 1978

kutchan_18-Edit.jpg

倶知安 (函館本線) 1976 から続く

国鉄北海道支社札幌鉄道管理局は、1961年12月17日の「ニセコひらふスキー場」(*1)の開場に際して、その至近の下車駅となる比羅夫の北海道鉄道(初代)以来の駅舎をスキーロッジ風の観光仕様に改築し、臨時準急<ニセコ>を札幌-狩太間で毎週末に運転、比羅夫からスキー場には国鉄自動車の運行を開始したのだった。

倶知安までを準急、以遠を普通列車とした<ニセコ>の運転は、週休二日制の無い当時には札幌を土曜日の昼過ぎに出て、狩太で折返し日曜夕刻に札幌に帰着する苗穂機関区のキハ22の2両組成1組による仕業とされた(土曜下り/日曜上りは回送)。
これは、3月末までの運転予定であったのだが、それを待たずに1962年2月1日より逆時間帯に1往復を増発の上で、準急<ニセコ><らいでん>の定期運転となった。北海道における気動車準急の伸長期にあたり、用務客需要も相当に存在したのであろう。よって、臨時列車は1962年のシーズン以降には札幌を土曜朝発、日曜夜帰着の時間帯に、やはり狩太着発の<ニセコ銀嶺>に立替えられた。1968年10月改正ではこのスジも<らいでん>として定期化されるのだけれど、<ニセコ銀嶺>の愛称はそれに全区間併結の臨時急行として残された(*2)。
また、1962年シーズンに先駆けての10月6日からは胆振線に週末の臨時準急<いぶり>を運転して室蘭方面からのスキー客輸送に対応した。これも1963年10月に定期化されている。

国鉄自動車の列車接続運行についてを、この記述に際して調べてみたのだけれど、路線開設の公示はなされていないのである。札幌鉄道管理局の局報を閲覧出来ていないので推測だが、局長達による臨時路線若しくは貸切運行の形態だったと思われる。戦後まもなくの機動運営の当時はともかくとしても営業拠点を持たない倶知安地区での運行は、まだ冬期運休路線のあった羊蹄線関係喜茂別支所の要員・機材を一時転用したものだろうか。仮設であったと思われる車庫に検修場の位置など詳細は明らかに出来なかった。四輪駆動ボンネットバスの10メートル程の車長とは云え、それが比羅夫駅への狭い急坂を行き来したとは俄には信じ難い。
スキー場には1962年シーズンより倶知安駅からの道南バスが乗入れ、1963年からは狩太駅接続のニセコバスも運行されたゆえか、国鉄によるバス運行は1965年のシーズンを最後に取りやめられる。スキー客の乗降から駅前には数軒の民宿が営業したと伝えられる比羅夫の賑わいは、僅か数シーズンにて終わった。(この項続く)
....................................................................................................................
(*1) この際に「ニセコ比羅夫スキー場」を改称。
(*2) 札幌-江別間を単独運転の普通列車として延長した時期もある。急行区間の全区間定期列車併結は、実質的にそれの増結車と云える。

写真は倶知安構内北側の鉄道宿舎をかすめて走る905D<らいでん3号・いぶり・ニセコ銀嶺>。後追いである。
この頃、後部2両の<ニセコ銀嶺>には、せめてものスキー客サーヴィスだったのかキハ56/27が使われていた。その前位2両のキハ22が<らいでん3号>、1両が<いぶり>である。これには次の小沢で岩内からのキハ22-2両が連結され、札幌到着時には7両編成になっていた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.


広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1978

hirouchi_06-Edit.jpg

札幌と釧路を結ぶ気動車による優等列車は、1961年4月15日に函館線内を夜行運転としていた函館-釧路間準急<狩勝>(*1)に、これを札幌発着へ立替えの上で投入したことに始まる。気動車運行による大幅な到達時分短縮から、同時に急行列車への格上げもなされた。
これは、苗穂機関区への1960年度民有車両計画によるキハ56-5両/キハ27-12両/キロ26-5両の配備を待って行われた施策であり、後に続々と増備される、この急行形気動車系列による全国で最初の急行列車への運用事例でもあった。この22両の配備は、<狩勝>の5両編成-1組運用の他にキハ55/26(*2)を使用していた函館-札幌間座席指定制急行<すずらん>の置替とそれぞれの増結、および日高本線への季節準急運転を考慮したものであった。
根室本線系統へは、続いて1961年度本予算車の出場により同年10月1日改正で客車運行の札幌-釧路間多客臨(*3)を定期化の上函館-札幌間<アカシヤ>と繋いで気動車化した<摩周>が設定され、以降1962年2月1日に帯広発着の<十勝>、1963年6月1日には札幌-根室間に<阿寒>が相次いで増発されて根室本線の気動車優等列車群の骨格が形成されて往くのである。1962年10月1日改正で特急<おおぞら>が運転を開始し、1964年10月1日改正での<摩周>の<おおとり>への特急格上げもあるが、本州連絡を使命とするそれらに対して線内優等列車として機能を果たす列車群であった。
1968年10月1日改正を以て、その代表として<狩勝>への愛称統合(*4)が行われた後も1往復が季節列車に格下げされた時期もあるものの、3往復の設定は永く維持された。

石勝線の開業した1981年10月1日改正では、帯広発着を除く2往復が編成を短縮されながらも滝川経由にて残存したけれど、以後、1984年2月1日改正にて上りの根室発の廃止と1往復の帯広-釧路間の普通列車格下げが行われ、1985年3月14日改正でグリーン車の組成廃止、1986年11月1日改正では、1961年に客車準急を置替えた<狩勝>本来のスジの廃止など運転縮小が続いた。終末期にはキハ56の2両に富良野回転車としてキハ40を併結する遜色急行となって1990年9月1日改正にて消滅した。
.....................................................................................................

(*1) この列車は、1950年10月1日改正で設定された小樽以遠を普通列車とした函館-釧路間準急を、1955年6月1日に全区間準急列車に格上げしたものであるが、この際には新設の函館-網走間準急列車に函館線内のスジを譲り、それの附属編成となっていた。客車の配置と運用の都合であろうが、函館発着は1両が網走編成に併結されるのみで列車本体とも云える2等車を含む4両は小樽解結とされた。実質の小樽-釧路間昼行準急は、現在まで繋がる根室本線系統昼行優等列車の嚆矢に違いなく、当時に同線内夜行優等列車の函館-釧路-根室間急行<まりも>と対をなす代表列車であった。<狩勝>の愛称は1959年9月22日(1958年7月15日とする説もある)に付与されたもので、同時に網走準急は<はまなす>と命名された。
(*2) 2等車はキロ25。冬期間に3等車はキハ22に置替られていた。
(*3) これも<狩勝>を名乗っていた。
(*4) 上りの<阿寒>のみが運用の繋がっていた函館本線急行と統合して根室-函館間<ニセコ>とされた。

写真は、広内信号場からの馬蹄形曲線を駆け下りる401D<狩勝1号>。
前2両は1962年5月1日以来の旭川発着附属編成。キロ26を含む8両組成は幹線急行の風格十分である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

倶知安 (函館本線) 1978

kutchan_11-Edit.jpg

クッチャン原野への入植は1892年の47戸に始まると記録されている。以来10年程の間に、ここには村が開かれ戸長役場も置かれて、駅逓に郵便局も設置され原野の各所に尋常小学校の開設も進んだとあるから、入植人口も順調に増加したものであろう。現在位置に小規模ながら市街地も形成されていた様子である。

北海道鉄道(初代)による倶知安駅は歌棄(現熱郛)-小沢間開業にともない、その市街地の西側クトサン川沿いに1904年10月15日に開駅した。なお、北海道鉄道線はこれにて函館-小樽中央(現小樽)間が全通している。
ここには黒松内に続いて機関庫が設けられ、山岳線用マレー式B+B型タンク機関車D1形(11号機関車)などの配属されたものと思う。この機関庫は国有化後の1913年6月2日付にて駅から独立した現業機関-倶知安機関庫(後に機関区)となった。運転区所としては、客車配置の小樽築港客貨車区倶知安支区に駅から分離の倶知安車掌区も置かれて、長万部-小樽間の運転上の拠点化が進められたのだった。こればかりでなく、ここへは、保線区に信号通信区、建築区、電務区などの現業機関の出先に、宿泊所や物資部の配給所なども置かれることとなった。山線区間のほぼ中間に位置する地理的条件に加えて、それに従事する大量の職員を受け入れるだけの都市機能も、既に備えていた訳である。
駅の貨物扱いも多かった当時には駅の拡張も進められ、広大な構内を擁するまでになっていたのである。

写真には、ここの拠点機能を維持していた、その末期の構内全景が見える。
左端の機関区には機関車の配置は無くなっていたけれど、キハ22の10両が居て岩内線と胆振線に運用を持っていたし、奥の客貨車支区の庫には機関区に常駐のスエ30が収められていた。右の貨物積卸線には停泊車の姿があり、コンテナも積み上げられている。但し、これは日本通運のデポに利用されたもので、コンテナ貨物の扱いが在ったのではない。
胆振線の本線に多数の側線も健在であるし、夜間にも入換えの有る構内は照明に煌煌と照らし出されるのだった。
出発して往くのは、荷42列車函館行き。

今、構内西側は、駐泊庫として使用のかつての客車庫を残して建ち並んでいた鉄道官舎も全て取り払われ、スポーツ施設に公園と化した。駅本屋側の官舎も無くなり貨物施設跡ともども駐車場に転用の空間が目立つ。持て余し気味の二階建て本屋は、1960年7月の改築に際して、ここに在った多くの現業機関事務所を収容するものであった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/8sec.@f2.8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.
続きを読む

上越信号場-奥白滝 (石北本線) 1978

okushirataki_03-Edit.jpg

オホーツク岸の湧別/網走を道央に連絡する道路は、1889年6月に着手し僅か60日ばかりで旭川湧別仮道路として一応の開通を見た。空知監獄の囚人37人を使役した突貫工事と云われているが、驚くべき短期間での開通は、そこに既存であったアイヌ民族による踏み分け道然の交易路を拡幅したものとも思える。この道路は野付牛(現北見)を経由する北見道路として翌1890年に本工事が着工され、1891年12月27日に完工と記録されている。
これは人馬の通行を前提としていたから北海道の中央山脈を湧別への最短距離となる北見峠で越えていた。

一方、1898年に旭川へ達した鉄道路線は、富良野へと南下し狩勝峠を越えて池田より北見、網走に至る網走本線が1912年12月5日に全通している。距離は延伸しても根室方面と中央山脈通過線を共用出来るのが、その事由と思われる。それの短縮も1921年10月5日に全通を果たした名寄線/湧別線経由が選ばれ、石狩と北見を隔てる山岳地帯の通過線は北海道鉄道敷設法(1896年法律第93号)第二条に規定の別表にすら記載されないものであった。
この峻険な峠に対して、当時の非力な機関車運転に求められる線形の実現に要する隧道延長とその工事の困難が予想されたゆえである。

1899年から建設の請願活動の行われたと云うその路線は、1920年に至ってようやく臨時第43帝国議会の協賛を得、1922年鉄道省告示第45号により北海道建設事務所の所管となり着工した。奥地での4000メートルを越える隧道掘削にも確信を得られる技術の発達も背景にあるだろう。同所による当初の現地調査では、その位置は北見峠と石北峠の双方が候補に挙げられていた。石北峠となれば武華原野への直行にて経由地から外れる白滝や遠軽地域が、これにどのように運動したものか、遠軽町百年史に記載はない。(読み漏らしかも知れぬ)
けれど、1923年9月1日に発生した大正関東地震からの復興予算に関連しての工事凍結に対して「かぼちゃ団体」と全国紙に報道されたような陳情団を長期中央に派遣し、強力な抵抗運動を展開したのはこの両地域の住民であった。

工事は白滝を境界として上川方を西工区、遠軽方を東工区と分け、石北トンネルから白滝に至る区間は西3、西4と西5工区に当たる。隧道内の最高点を新旭川起点67K473Mの施行基面高644M10に置いて、これより白滝方を15.2パーミルの下り込みとして出口の起点69K669M地点の施行基面高を611Mまで下げるのだが、そこから奥白滝構内直前の起点73K521Mまでの高低差100メートル余りには急峻な地形が続き、湧別川の本支流の横断に多数の架橋を要する難工事と記録にある。
この区間の路盤開削は、まずは石北隧道工事への資材運搬路として行われ、それには遠軽の業者が導入したフォード社製の貨物自動車が使われた。余談ながら、これが白滝村に現れた最初の自動車と村史にある。

西4と西5工区であったこの区間は、確かに山深くて狭い谷に撮影の足場は見つからなかった。
列車は、522列車。この頃、石北本線を通す唯一の普通列車だった。(下りは北見で521-1521と列番が変わる)

=参考文献=
北海道鉄道百年史(全三巻) : 国鉄北海道総局 1976-1981
鉄道百年略史 : 鉄道図書刊行会 1972
北海道の鉄道 : 守田久盛/坂本真一 吉井書店 1992
北海道道路史 3 路線史編 : 北海道道路史調査会編 1989
遠軽町百年史 : 遠軽町編 1998
白滝村史 : 白滝村編 1971

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.


元沢木仮乗降場-栄丘 (興浜南線) 1978

moto_sawaki_02-Edit.jpg

安別仮乗降場 (天北線) 1985 から続く

前回で述べた旭川鉄道管理局管内の事例は地元のニーズに開設を急いで(積雪期に間に合わせる等)、局長判断にて手続きを省略し本社承認を得ないものであった。
推定に過ぎないが、斉藤治平のそもそもの発案は、それこそ彼の専門分野と思われるバスのごとくに気動車を煩雑に停車させることではなかったろうか。例え数戸であろうが集落に通ずる道の線路に接する地点に「停留所」を考案したのである。従って乗降設備も気動車の乗降扉の一箇所が接すれば良い程度の乗降踏台を想定していたものと思われる。
この提案に現地事情を知らぬ本社側は、それを臨時乗降設備仮設の管理局長権限の拡大解釈と認めるにしても、高頻度の停車によるダイヤ編成への影響や車両運用など運転上の事由にて難色を示したのではなかろうか。戦前に試行された「ガソリンカー駅」の失敗も考慮されたであろう。
1960年までの97場設置は、斉藤としても譲歩した結果であり、設置経費増を招く気動車1両分程の乗降台設備は運転側の制動操作に配慮して本社指導を受け入れたものと推測する。
斉藤は設置を進めながら、利用者数の当時の駅設置基準に到達した案件については積極的に駅昇格も働きかけ、それを実現している。キロ程付与による利用者の運賃負担軽減を慮ってのことである。

この斉藤治平による事例を以て、道内の仮乗降場全てを未承認案件とするのは誤りと思う。
国鉄における「仮乗降場」とは、本邦にて最初の統一された鉄道の技術基準である「鉄道建設規程」(1900年8月10日逓信省令第33号)の第31条に規定された「地方ノ状況ニ依リ」特許を得て「設クルコトヲ得」る「簡易停車場」に端を発するものと思われる。
1907年に開設された札幌競馬場への観客輸送を図って、1908年8月8日から4日間のみ使用された北五条、それを引き継ぐ1913年7月19日付の競馬場前の道内初期の「仮乗降場」事例は、この規程に準拠したものであろう。当時に、これを「仮乗降場」と称したかは定かでない。ちなみに競馬場前は現在の桑園の前身にあたる。
続いての「仮乗降場」には、1926年7月1日開設の瀬越、1932年7月22日の新七重浜、そして1944年7月1日付での胆振縦貫鉄道の国有化に際して、地方鉄道建設規程に従っての停留場の内、駅に昇格されなかった尾路遠の例が在る。尾路遠は山中に存在した保線区所の官舎居住職員・家族のみの利用につき、駅とはしなかったものである。
これらは前回に「仮乗降場」の項を引用した『鉄道辞典』の編纂より前の鉄道省の時代なのだが、引用の前段での解説通りに本省予算にて設置し鉄道公報にて達の出され、鉄道局管理部がこの場合は通年開設としたものであろう。云うなれば正規の仮乗降場だったはずである。
(この項 電力所前仮乗降場 (士幌線) 1979 に続く)


元沢木は、斉藤治平の設置した一連の設備で1955年12月25日に開設されている。対して、彼の関わらない1948年に仮乗降場として置かれたのが栄丘である。設置当初の姿は知らぬのだが、この当時の土工のホームは、その海側に交換設備を予定したような用地も持っていた。ここは、元沢木の置かれた約1年後の56年9月20日に駅へ昇格した。これを含む1946年から1950年に開設された28場の仮乗降場については次回に述べる。
写真は、元沢木を発車して往く827D、雄武行き。
海沿いに散在するけれど酪農の集落である。板張りの乗降場は左に画角を外れたところにあった。
(文中敬称を略)

[Data] NikonF2A+AiNikkor180mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

函館 (函館本線) 1978

hakodate_06-Edit.jpg

[函館 (函館本線) 1988 から続く]
1993年以降、機回線を含む5面10線にて運用されて来た函館駅は、2001年4月26日に駅本屋建替計画にともなう構内改良工事が起工され、それは5月9日を第一回として以後2002年1月31日まで延べ40回の線路閉鎖をともなう大掛かりなものであった。深夜のそれにより、その実施日には下り<北斗星>に上下<はまなす>が五稜郭-函館間を運休し、時刻表にも記載されたのでご記憶の方も多いだろう。
特に2001年8月25日には15時より15時間に及ぶ信号の現示停止がなされ、この間手信号により最小限の列車運行を確保しながら、翌8月26日に有効長357メートルに及ぶ第6乗降場(9・10番線)と外側の機回線(11番線)が運用を開始した。これは、新本屋建設に支障して撤去される第1/第2乗降場(0-2番線)と有効長が70メートルにまで短縮予定の第3乗降場(3・4番線)の代替となるものであった。
同年9月27日には0番線を廃止して3・4番線を使用停止。翌2002年1月31日には1・2番線を廃止し、電車線設備を撤去の上で3・4番線を復活、合わせて跨線橋を廃して各乗降場の端部を連絡する地平通路が設けられた。この際にホーム番線の3-10番を1-8番に改める現況に移行し、一連の構内改良を完工した。

構内のコンパクトに一新された函館駅であるが、ここで注目すべきは現行の第1乗降場である。それは、70メートル程が残されるのみとは云え、気動車特急が13両の長大編成を横たえるなどした、かつての優等列車ホーム「函館第2乗降場」の北端である。早暁のここに立って、3番・4番線ホームに並ぶ<北海><おおぞら>を眺めた経験をお持ちの方は多いだろう。位置は動いていないから、ここを基準にかつての構内を想起することも出来る、旧函館駅唯一の遺構である。
駅舎建替には触れなかったが、この2代目函館駅で4代目となる新駅本屋の供用開始は2003年6月21日であった。

写真は、旧跨線橋から暮色の北側構内を見ている。右が旧第1乗降場、左が旧第2乗降場である。この日、遅れの16D<おおとり>は、まもなく定時で到着する6D<おおぞら2号>に4番線を譲り3番線の到着となった。この北端部分が現第1乗降場として残る。

ところで、現在、旧函館シーポートプラザ建物に隣接して「旧函館駅所在地」なる碑が置かれ、0キロポストを模した石柱が存在している。これは、1962年の函館駅開駅60周年事業として、1902年12月10日に海岸町に開業した初代函館駅の跡地とされる公園に建てられたもので、どのような経緯か知らぬが1990年にここへ移設されたのである。このような歴史を無視した暴挙は考えもので、そこに存在する意義の全く無いものであるばかりか、案内板の併設されるものの一読しては解り難く、史実を知らない者に誤解を与えかねない。

参考文献 : 道南鉄道100年史「遥」北海道旅客鉄道函館支社 2003年

[Data] NikonF PhotomicFTN+AiNikkor50mm/F1.8 2sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptuerOne5 on Mac.

張碓-銭函 (函館本線) 1978

hariusu_03-Edit.jpg

冬期間、函館本線の山線と呼ばれる区間での風雪による輸送障害は、山間部よりも寧ろその中での海線である小樽築港-銭函間で生ずることが多かったと記憶する。現在の民営会社と異なり、国鉄は余程で無い限り列車を止めはしなかったのだが、海岸線をトレースするここでの暴風雪には脆かったのである。

この冬か、前の年であったかは忘れてしまったのだけれど、午後からの降雪が夕刻に至って、丁度撮影を終えたあたりから極端な吹雪と化したことがあった。風雪は飛礫となって露出した顔面を襲い、まともに前を見れぬ程で、マウンテンパーカのフードを深く被り、こんなこともあろうかとパックに用意していた山岳用ゴーグルをかけるのだが、高所での紫外線対応で暗緑色ゆえ、暮色の視界がさらに暗くなってしまうのが難点ではあった。
這々の体で銭函駅待合室に逃げ込み、そこで小樽-手稲間の運転見合わせを知った。そう言えば、ここに至るまで列車には出くわさなかった。
その日は道内ツアーの最終日で、山線夜行の荷44列車で函館に向かう予定にしており、それを札幌まで迎えに往くつもりを、ここで待てば良いと最初は高を括っていたのだった。海鳴りとも風音とも知れぬ唸りが天空を覆って、海側を向いた待合室の窓と言う窓は、横殴りの風雪に塞がれてしまったのだけれど、ストーブの燃えるそこは快適ではあったのである。但し、売店は早仕舞いしていた上に外にも出れぬから空腹は堪えるしかない。
19時を過ぎても風雪は一向に収まらず、札幌に待機していた<ニセコ4号>と、まもなくそこに到着する<北海>は、長万部以遠本州方面旅客を<おおぞら6号>に移乗させた上で前途を運休と出札の駅員から知らされれば、札幌からの夜行<すずらん>への切替を考えるも国道を往くバス便も運行を停止していると云う。

駅寝も覚悟し始めた23時を回った頃、遂に運転は再開され、何本かの電車や気動車が満員の通勤客を吐き出した後に、荷44列車はその日の最終列車としてやって来たのであった。ガランとした客車に乗り込んだ時には安心感からか、空腹も厭わず直ぐにも眠りに落ちてしまった。直近の小樽停車すら覚えていない。
翌朝、周囲のざわめきに目覚めると、満員の乗客の姿が見えた。遅れを増して函館の通勤通学時間帯に割り込んだ列車は、約3時間延で8時過ぎのそこに終着した。予定した26便には乗れなかったけれど、ホームの駅蕎麦の美味しかったことは記憶に鮮明だ。

写真は、激しい降雪の恵美須岩を往く833列車岩見沢行き。
視程が効かず望遠は使えない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec.@f5.6 Y42 filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

緑 (釧網本線) 1978

midori_01-Edit.jpg

ここは、釧網本線の釧北峠の網走方に在って、東釧路方の川湯とともに運転上の重要な地位を占めていた。峠の山中に信号場を持たない14キロあまりの長い閉塞区間の始端終端駅として、そして弟子屈からここまでが運用区間であった補機の解結駅としてである。それは、古くは道内に珍しい8620であり、後にはC58なのだけれど、1968年と云う早い時期に釧路機関区に投入された12両のDE10(27-38)に置替られてしまい実見してはいない。
74年夏の本務機運用の無煙化以降もこの状態は続いたのだが、78年10月改正にて補機運用のその重連総括制御を活かしての釧路-網走間の通し運転に改められ、この頃にはここに待機する機関車の姿も見られなくなっていた。

上下本線に加えて下り線外側に待避線と、機回しにも使われたであろう2本の側線を持つ構内は広く、待避線では貨物列車が旅客(混合)列車の先行を待っていたものである。開けた構内は、その側線の東側に南へと広がる草原に依るところで、そこはかつて上札鶴森林鉄道の接続していた広大な土場であった。そこの本線寄りには68年10月まで使われた転車台の存在したはずなのだが、この時の訪問では積雪のせいか、その痕跡を探し得ていない。

網走行きの混合634列車は、ここで対向する613D<大雪1号>の通過待ちで暫し停車する。待避線には1693列車が、それの先行を待っている。
貨物列車の設定が比較的多かった釧網本線には、待避線を持つ駅が数多く配されており、1982年の釧路鉄道管理局による配線略図では起終点と棒線駅を除く線内19駅中14駅にそれが見て取れる。(但し、その全てが運用されていたとは限らない)
なお、ここの混合列車は、貨車の前位組成定位により冬期の暖房を車載のウェバストヒータによっていたから、例え貨車の連結の無くても蒸気暖房のスチームの吐出は見られず、些か物足りない。前記の12両のDE10も後には1両を除いて蒸気発生装置非搭載の500/1500番台に差替えられている。
余談ながら、道内でDE10が蒸気暖房を稼働したのは、73年4月から86年3月2日までの江差線列車に対してのみである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f11 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

糠平 (士幌線) 1978

nukabira_03-Edit.jpg

蒸機の時代には撮っていない士幌線へ通うようになったきっかけは思い出せない。帯広を拠点にしていた狩勝新線と組合せられる線区として自然に選択したものと思う。
ロケハンに乗ってみて、十勝平野の起伏ある畑作地帯も、糠平湖北端の長い橋梁(第四音更川橋梁-256M)や幌加近くの峡谷(第五音更川橋梁-109m)も気になったけれど、黒石平からダム建設にかかわる急勾配で山腹を登る途上(下の沢橋梁-41M)や、糠平ダムを交わしてから糠平に至るまでの短いけれど湖畔の区間が気に入って、十勝三股で折返して糠平に降りたのが最初である。この十勝三股間までの区間の列車運行の休止されるのは翌冬のことで、ここのコンクリートアーチ橋梁を撮っていないのは、些か悔やまれる。

この頃までに糠平には、国道273号線の新道が途中まで完成して、そこから俯瞰気味のポジションが取れたし、自動車の往来の無くなった旧道なら、長い列車間隔をゆったりと待てた。時間を持て余し楽しむ環境が整っていた訳である。
この旧国道、夏ならよいのだが、積雪期には除雪されないゆえ踏み込むには覚悟が要った。雪の積もり初めの頃、10センチ程度の新雪と侮って難儀したこともある。その時期の降雪は決して粉雪とは限らないのだ。

雪とならば、ここでは温泉の楽しみも在った。これについては前に書いている。糠平 (士幌線) 1983
昼間の貰湯は、めったに人に会うこと無く、ひろい浴場を独占出来た。

写真は、旧道のトンネル付近から俯瞰気味に見た725D、十勝三股行き。
湖面を背景に、カーブの向こうから列車の現れるのを望むのは好きな光景だった。
これは、画角中央部をトリミングしてタイトルバックに永く使っていたカットである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

西中 (富良野線) 1978

nishinaka_02-Edit.jpg

その夜の富良野盆地は厳しく冷え込んだのだった。このカットの夜ではない。その、ひとシーズン前の西中でのことである。
バックパックに入れた水筒が完全に凍りついて、素手で触れるのを躊躇してしまうような環境が、どれだけ気温の低下していたものかは分からないけれど、その厳寒でF2に仕込んだフィルムは、用心していたにもかかわらず次のアドヴァンスで折れてしまったのである。
仕方なく、翌日の撮影をカメラ一台のみにて済ませ、これを早めに切り上げて釧路の写真店で暗室を借りたのだった。ここで、リワインドもアドヴァンスも出来なくなった状態のままカメラから取り出し、フィルムの未撮影の残りを取り去ったパトローネに事故以前の、パーフォレイションも長く破損もしていた撮影済み部分をなんとか詰め込んで、これを持ち帰った。
後日に現像したそれは、折損部は勿論だけれど壊れたパーフォレイションが膜面を傷つけていて、予想通りにコマの大半が救えなかったのだった。
この翌月の道内行きで、多くは撮影し直したものの、富良野線は翌年に持ち越していた。だから、これは一年越しで再撮影したカットである。

富良野盆地内の富良野線は、鹿討の手前、起点4キロ付近から上富良野直前までの約10キロメートルが直線である。沿線は、駅周辺を除けば障害物の無い田園地帯で、どちらが先か分からないけれど、その碁盤の目状の条理線を正確にトレースしている。その開けた風景が気に入って幾度か訪れていたのだった。

西中はその区間の簡素な木造乗降場の駅で、この頃には、その傍らにプレハブの小さな待合所が建てられていた。国鉄に依るものと云うより、地元有志による寄贈物件と思われ、それもそのはずで、ここは1958年1月25日付にて開設の仮乗降場を出自としている。けれど、駅への昇格は、その僅か2ヶ月後の3月25日である。仮乗降場の大半が北海道旅客鉄道の発足まで正駅化を待たねばならなかった中にあって、2ヶ月でのそれは異例と云って良かろう。

これは、駅昇格を前提とした設置だったのである。
富良野線は、この1958年1月25日の時刻改正にて、気動車の投入による貨客分離を果たし、その加減速性能を生かした到達時分の短縮やフリークエンシィの向上が図られ、あわせて長い駅間を埋める多くの乗降場を開設する総合的な線区の経営改善が行われたのであった。
この改正で設置の乗降場は他に、近隣の学田/鹿討/北美瑛に旭川近郊の西瑞穂/西聖和を数える。神楽岡/西御料も一足早い1957年12月1日に開設されていた。
この営業施策は、ルーラル線区経営のモデル線区として本社の主導を得て実施されたものであり、これら乗降場も当然にそれの認めるところであった訳である。
国鉄本社においても、簡素な無人駅設置と活用の思想がこの当時に存在したことの証でもあり、興味深い。

走り去って往くのは636D、旭川行き。後部標識灯は非自動化線区ゆえ片側点灯である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8  bulb@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
前のページ 次のページ