"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

北舟岡 (室蘭本線) 1988

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1870年4月を端緒とした旧亘理伊達藩による噴火湾北岸、胆振国有珠郡紋鼈地域への数次に渡る集団入植と開墾事業は、それの成功事例とされている。紋鼈に戸長役場が開かれた1879年の末までに、人口は2504人を数えるまでとなり、その農業生産には農機具や食品加工の工場が立地し、その従事者は勿論のこと、住民経済の充実に商業者や物流業者なども呼び寄せるところとなって、1880年代の紋鼈には当時の室蘭を凌ぐ市街地が形成されていたと云う。
道内経済の拠点に成長しつつあった函館との連絡は、1800年代始めまでに長万部への礼文華山道、弁辺山道を含む陸路が通じてはいたものの、辛うじて人馬の通行を保証する三尺幅の険しい峠道は増大する物流に応じられるでなく、加えての割高な通行料には海上輸送が主体であった。用いられたのは帆船であり、当初には自然の良港とされた室蘭や近隣でも有珠湾が中継地とされる中で、紋鼈の請願が実り1876年に東浜に埠頭が築造されるに至った。築港のなされれば早速に農作物の移出や消費物資の流入拠点に機能したに違いなく、伊達町史は函館紋鼈間航路開設を1883年とするが、これ以前より紋鼈の商人や函館の米穀商太刀川善吉による帆船が不定期に就航していたのである。
一方で、函館市史によれば、この時期は道内における個人による動力船=汽船の所有、それを用いた海運業の黎明期にあたり、函館でも豪商渡辺熊四郎が自らの経営する函館器械製造所(後の函館造船所、現函館どつくの前身である)で建造の汽船を所有して回漕業に手を染めていた。後の金森回漕組の創始である。その汽船、矢越丸は1885年11月から室蘭・紋鼈との不定期運航を開始し、順調に輸送量の伸びると見るや、これを定期化し紋鼈東浜に出張所を開設したのだった。
同市史は、当時の「水産事情特別調査」を引用して、地域に与えた経済効果を書いている。曰く、有珠・虻田地域の漁獲の不定期な帆船輸送では時期を逸して買い叩かれたものが、汽船の定期就航により産地側に有利な取引が実現し、また肥料にせざるを得なかった有り余る漁獲に商品価値を与えもしたとある。これは農地の換金作物とて同様であったろう。
地形に阻まれて鉄道の開通を1928年まで待たねばならなかったこの地域にとって、およそ半世紀に渡る海上輸送は生命線だったのである。

東浜に造られたと云う埠頭の位置は知れない。紋別川・気門別川河口を境に東浜・西浜と呼んでいたのだから、それは現在にも残る伊達市東浜町の海岸線の何処かであろう。痕跡も残らぬとなれば、史書は「埠頭」と記すものの木造の桟橋程度だったと思える。半世紀に一度も永久構築物に改良されることが無かったことになる。

東浜の海岸を背景に北舟岡へと接近する1列車<北斗星1号>。
運行開始から間もない頃で、重連の機関車は国鉄制式塗色、次位には函館からのスハフ14が従う。
6月と云うに、立ち込める霞が湾岸の視界を遮る一日と覚えている。うららかな日差しの下、信号場当時からと思える打ち捨てられた乗降台に腰掛けて列車を待ったものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.


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