"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

大岸 (室蘭本線) 1992

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礼文-大岸 (室蘭本線) 1990 の記事で、道道608号線の廃道部に残存する岩見隧道と達古武隧道の供用を1944年と書いた。以下は同記事の補遺である。

切っ掛けは、ようやくに「北海道道路史」(1990年 北海道道路史調査会編)を通読したことによる。全3巻からなる、それの第2巻技術編に上記隧道が1870年の竣工との記述を見つけてしまったのである。そこへの鉄道トンネル掘削に先駆けること60年には少しばかり驚かされる。
先の記事では、アジア太平洋戦争末期の工事に「東に礼文華山道、西に弁辺山道を残しての此処だけの改良も腑に落ちない」と疑問も呈しており、その回答とも云えるものの、俄かには信じ難い。この視点で「豊浦町史」(1972年 豊浦町)を解けば、本願寺道路との関連を匂わせる記述が見つかるのだけれど、地理的位置が違い過ぎようか。どちらも出典=一次資料の明示は無い。所載の参考資料群を片端からあたれば巡り会うだろうが、それほどの時間も無い。
ただ、先には北海道庁の資料での記述を信じて迂闊にも失念したのだが、改めて旧版地形図を閲覧すると1917年改測とされるそれに「道路」の存在は確認されたのだった。「長輪線建設概要」(1925年 北海道建設事務所)に収録される写真に写る礼文集落から(鉄道の)岩見隧道へと平行する道路を「工事用通路」と書いたけれど、既存だったことになる。
しかしながら、同じく所収の子持ち岩付近から(鉄道の)茶津・達古武隧道を画角とした写真には、それらしきは見えぬのである。難所のそこが、当時には人馬の辛うじての通行を保証するに過ぎない「通路」だったとすれば、トンネルも素掘りの洞窟風情とも推定され、解像度の良く無い原板にロウレゾの印刷技術には、写り込んでいても判然としないのかも知れない。
取り敢えずに閲覧した資料からは、どのように結論して良いものか。
今のところ1870年と云う確証は手にしていないけれど、1917年の改測図に鑑みれば鉄道隧道以前の1900年代初頭頃までにはトンネルは穿たれ、それは人馬のようやくに抜ける程度に洞窟然としていた、と云うところだろうか。道庁資料の1944年とは、それを貨物自動車の通常の走行を保証するまでの改修を指すのか。市井の道路史家や郷土史家には委細ご研究の向きもおいでのはずで、是非ともご教授願いたいものである。

大岸第一キャンプ場の東端には小さな岩山が存在する。車窓に認めた方も多かろう。チャス岬と同じく後背の山塊からの尾根筋の張出し先端が鉄道や道路建設で分断されての岩山だろうが、俯瞰と言えるほどの高度は無いものの、見渡す海岸風景が気に入って何度か立っていた。
大岸 (室蘭本線) 1991 の翌年、手前に放置されたボートが、その1年に海へと漕ぎでた形跡は無く、小屋の扉は風雪に破れてしまっていた。
通過するのは、定期に格上げされていた頃の3列車<北斗星3号>。470Dとの離合は大岸トンネル入り口付近のはずだか、3列車の僅かな遅れで被られるところだった。

チャス岬根元に現役だった岩見隧道が見える。先の「北海道道路史」は達古武隧道と共に道内最古の道路トンネルと書いている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.


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