"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

別当賀 (根室本線) 1972

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道内で幼少から少年期を過ごしたけれど、両親は茨城県水戸市の出身で、ご先祖は水戸藩士に行き着くらしい。
なので、水戸藩が、その太政官布告からまもない1869年8月から北海道の分領支配に参加し、天塩国北部と利尻島の割譲を受けたことくらいは承知していたけれど、そこから彼方東の根室国花咲郡での山林所有は寡聞にして不知であった。先住民にペトゥッカ(pet-utka)と呼ばれた地域の原生林である。
この取得が分領支配を出願した水戸徳川家11代当主、徳川昭武の時代の『地所規則・北海道土地貸規則』によるものか、1884年の華族令にて爵位を与えられた12代篤敬が『北海道土地払下規則』ないし『国有未開地処分法』を根拠に、その地位を以って成したものか、歴史の門外漢が覗いた程度には知りえなかった。おそらくは後者、これらの法令が北海道に特有の不在大土地所有制を誘導したように投機目的と見るのが順当なのだろうが、篤敬の次男、宗敬が後に東京帝国大学農学部林学科に進んだことを思えば、昭武の代から本気で将来の山林経営を考えていたのかも知れない。
しかしながら、宗敬進学の10年ほど前、1907年に水戸徳川家はそれを手放してしまう。売却先は、同年に秋田県能代(当時に山本郡能代港町)の製材会社3社が合同した秋田木材株式会社であった。これは当時の木材需要に成長した内地資本の道内進出に違い無いが、会社を率いた井坂直幹(なおもと)は、旧水戸藩士の子であり、大倉喜八郎の日本土木会社(大倉組)を経て能代にて造材会社を起こした人物であった。この売買が水戸徳川家側の事情によるものか、井坂の要請の結果なのか、経緯を研究者はとっくにご存知なのだろうが、いずれにせよ彼の推進した能代の製材会社3社の合併は北海道進出を見据えてのことであり興味深い。

秋田木材によるペトゥッカに当て字した別当賀における事業は、周辺山林からの造材に始まり、乾燥を経ての本格製材は1910年頃からと思われる。製品は建材としての各種板材はもちろんのこと、当時に需要の高かった木箱にも加工されて遠く朝鮮や満州へも運ばれたと云う。これにて、原生林中には100戸ほどの従業員住戸のほか、雑貨店や理髪店、料理屋も呼び込んだ集落の出現するに及んだと記録にある。
1920年11月20日には厚床から西和田へと釧路本線(当時)が延伸され、別当賀停車場が開かれるのも、この集落経済力ゆえであり、製品の輸送路を得たと云うに、肝心の秋田木材は1915年までに標津の忠類村に工場を移転し、この地を去ってしまう。細い水流しか認められぬ地では奥地からの運搬手段に事欠き、周囲での資源が早くも枯渇したと云うことなのだろうか。
山林は、苫小牧を足場に道内事業を拡大していた王子製紙(初代)に受け継がれ、現在は十条製紙を経た日本製紙の社有林となっている。

別当賀構内へと進入するのは444列車、釧路行き。
せっかくの蒸機旅客を写真には面白くも無い駅スナップとしているのは、道東太平洋岸特有の移流霧に拠る。前に車窓に見かけた落石との間の浸食崖上区間(後年に高名となる位置である)へ歩くつもりで、地形図上に細道の繋がっていた別当賀に降りたものの、深い霧の晴れるのを待機する間に到達タイミングを失ったのだった。
最近になって、同区間での蒸機写真をWeb上に見つけ、やはり撮ったヒトはいたのだと思えば、すぐに再訪しなかったのが悔やまれる。この頃には多くの地点を目指すだけで精一杯だったのである。

秋田木材は別当賀での操業中に、根室市街地での電燈事業など、同地域で幾つかの事業を起こし、それは工場を移転してからも続けられた。そこでは「あきもく」の通称で親しまれ、今でもその名を懐かしむ人の多いと聞き及ぶ。

[Data] NikonFphotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f4 L37filter unknown film Edit by PhtoshopCC on Mac.

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コメント

別当賀今昔

別当賀ですか。もはや何処に駅があるかも判然としない現況にも触れれば、
出発信号機まである構内やら、100戸に及ぶ集落やら、想像すらできません。
北海道の近世史は浦島太郎を地でゆくようですね。
全て徒歩しか無かった時代、「あの場所」は難攻不落だったかも知れません。それこそ聖地と呼ばれるに相応しく。

  • 2016/04/29(金) 00:27:52 |
  • URL |
  • 風太郎 #ORZvdv76
  • [ 編集 ]

Re: 別当賀今昔

画角左端、出発信号機の向こうで手前方向に分岐しているのが貨物積卸線、立ち位置の左には貨車が停まっていたと記憶。
画角右へは上り本線から上り1番線が分岐しています。すなわち待避線を持っていたわけでして、東釧路から先では上尾幌・尾幌・門静・厚岸・茶内・浜中・厚床・別当賀・落石にその設備はありました。
つまりは、優等列車と貨物ないし混合列車の双方の運転を想定した線路ということですから、ここは紛れも無く主要幹線として建設されたのですね。
別当賀には、厚床保線分区の線路班が置かれていましたから駅と合わせて、日中に5・6人の職員が詰めていた時代です。今は全てが昔語りです。
この日撮り逃した件の位置への初訪は、蒸機の消え失せた77年となってしまいました。

  • 2016/04/30(土) 14:30:40 |
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  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

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