"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

上野幌 (千歳線) 2000

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地名のことであるから、野幌丘陵の南北稜線上、野津幌官林の原生林が広がる最高所一帯に付された椴山の名が、いつ頃から存在したものかを明確に記した資料などは無いだろう。トドマツが密生していたことからの和名ゆえ、そこに和人の杣夫(木樵)が入り込むようになったとされる1880年代の彼らによる付名であろうとは、想像に難く無い。1890年に、広島開墾からそこを横断して豊平川に架橋の東橋へと至る札幌道路が開削された時点には既にそう呼ばれ、1898年に丘陵頂上に建立された神社も椴山出雲神社であった。
その札幌道路沿いに選定された殖民区画は、当然にそれを東西基線とした上で、椴山に直交する南北基線が引かれた。現在の椴山交差点がほぼ交点に当たる。そして、1897年7月に発行された区画図によれば、その南北基線をやや外れた位置に、札幌道路から南へ、開墾地を外れて原生林の中を、当時にノホロ(現在の大曲と思われる)と呼ばれた地区の殖民区画へと向かう小道が描かれている。おそらくは、これが農場橋へと向かう鉄道屋達に馴染みの深い、現在の北広島市道大曲椴山線のはじまりであろう。西の里地域の開基百年に際して刊行された郷土誌「風雪百年」(2000年 西の里開基百年記念事業実行委員会編)には、かつてノホロへは、裏の沢川上流のベコネ沢沿いに辿ったと記されるから、これに替えて開かれたのかも知れない。
せっかくに道が通じたと云うに(と言っても獣道よりはマシな程度の踏分道だったに違い無い)、その一帯が先にも書いたように入植地とされず原生林が残されたことには、些か訝しく思っていたのだが、それは敢えて残したものだったらしい。20世紀初頭にも自然保護の思想は存在したのである。けれど、それは強固な国家意思に支えられたでなく、前に 静狩 (室蘭本線) 2010 に書いたごとく、経済活動を前には決して留意されぬのだった。ここも1921年3月3日に「野幌原始林」の一部として天然記念物指定を受けながらも、戦後まもなくに開墾地とされるに至った。1945年11月9日に閣議決定の「緊急開拓事業実施要領」によってである。
この戦後緊急開拓については、猿払 (天北線) 1986 に概略を記したので繰り返さないが、急増した人口を吸収する「開拓」用地の不足には自然保護など二の次にされ、先の椴山から大曲へと辿る小道の、1926年には開通していた千歳線までの一帯には「新光」と名付けられた部落(敢えて当時の呼称とする)が開かれ、13戸が移住したのだった。樺太や遠くシベリヤからの引き揚げ者を含んだけれど、この施策が開拓農家の次男坊・三男坊の受け皿に過ぎなかったことを示すように多くは道内からの入植であった。
新光地区は、野津幌川水源の沢が入り込んだ起伏のある地形に農耕には極めて悪条件ではあったが、馬鈴薯を主体に大根・キャベツにレタスや人参を生産、札幌市内に出荷していたと云う。1960年代には花卉栽培に転換して成功したと「風雪百年」にある。

市道大曲椴山線が「農場橋」で千歳新線を越えるあたり、苗穂方のR=800曲線を旋回する8002列車。
画角は数度の既出なこと、ご容赦いただく他無い。北広島ないし上野幌駅前からのバスを椴山停留所に降りて、農場橋までは本当に幾度も通ったのである。手稲在住の古には、親父との日曜ドライブで馬鈴薯農場へと走った道でもあるとは、以前の記事に書いた。
千歳新線は、新光部落の南端に用地を求めて建設された。この画角の位置もそれに当たる。
そればかりが事由では無いだろうが、農地を削られた新光集落は1980年代までにはほぼ全戸が離農、一部で耕作の続けられるものの、現在では開墾地の多くが転用ないし耕作を放棄されたまま野に還りつつある。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/320sec@f3.2  C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

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