"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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落部 (函館本線) 1992

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森町域から八雲町域に至る噴火湾西岸には海成段丘が発達し、特に海食崖に続く波食棚が離水するまで隆起しなかった石倉から東野に掛けては段丘崖が汀線に接している。
古代以来に海沿いの通行路とは一般に海岸線をトレイスしていたから、この区間はやはり難所であったろう。幕末期の1845年に此処を通過した松浦武四郎は、後年の東蝦夷日誌に、モナシベ(現在の栄浜付近)からホンミツ(地名は残らなかったが、現在の落部市街地東端あたりであろうか)までを「タテと云崖の下を行也。此処風波有、又は雨の日等は通りがたし。又雪の後には崖崩て落ること有、之まゝ径我人有ことなり。旅人此処を行時は日和を考て通行すべし。」(※句読点を加えている)と記し、落部川を渡船してからモノタヘ(現野田追)への段丘崖を「クロハゲ并て少し行アカハゲ赤土崩崖なり」と書いている。
ここには、1600年頃に松前藩による知行地たる場所の置かれていたのだが、当初には福山(松前)との往き来は勿論のこと場所内交易拠点間の連絡にも主には船が用いられていた模様である。1799年に東蝦夷地を直轄領とした幕府は、松前から長駆エトロフに至る軍用路を開設し、陸上の運搬路も開かれたものの、これとて局地的踏分道を繋ぎ合わせ、辛うじて人馬の通行を可能とした程度で、通路開削の困難な段丘崖直下の海岸線は「海岸汐時に寄深ヌカシテ馬蹄難進ことあり用心いたす所なり」(「蝦夷渡海記」1809年)と捨て置かれた様子は、40年余り後の松浦武四郎の記述に合致する。
それでも、その時代に鷲ノ木・山越内・長万部に通行屋が、落部・黒岩に昼休所が設けられて通行の利便の図られていたことが記録されており、この原初的な通行路は日本海岸寿都までの連絡も担い、寿都街道と呼ばれていたようである。

森から長万部への本格的な西洋式の交通路、河川への架橋も含めた「道路」の開かれるのは、1888年に着工して1890年12月に開通した国道が最初であった。これには、規格とされた幅3間(約5.5メートル)の確保に、段丘崖直下の開削は困難であったのだろう。ヤウルクテキナイと呼ばれた(らしい)現在の本石倉付近から東野へは段丘面上を通過する線形の選ばれていた。
よって段丘崖下に路盤を構築したのは、アジア太平洋戦争戦時下での陸運転換政策に急遽着工され(計画と設計は1930年代から存在し、一部隧道は1942年から着工されていた)、1945年7月20日に使用を開始した函館本線の別線が最初であった。段丘面上へと登り降りする既設線に比して勾配の除去を要求されたゆえのことであり、古の通行路が鉄道に姿を変えて復活したのだった。土木技術と機械化の進展の結果ではあるが、段丘崖の崩落と噴火湾の波浪に悩ませられる災害区間となったことは、松浦武四郎の時代と違わない。

海面との比高の40メートル近くに及ぶ段丘崖下を往く8002列車<トワイライトエクスプレス>。
ここを17時33分頃が定時だったこの列車の光線下で撮影は、夏至の近辺と云えども困難だった。それは列車の斜め後方からとなるのだが、急峻な崖下までに届くことは無く、せめては海面への照射の反射光に期待することになった。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/125sec@f5.6 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCCon Mac.

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