"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

銀山 (函館本線) 1975

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函館運輸所に配置のDD511142には、2014年度末日を以て用途廃止の措置がとられた。四半世紀に及んだ本州連絡夜行列車群の撮影では、ファインダに確認する機会の最も多かったと記憶し、それらの最後を見届けるものとばかり思っていただけに意外感が残る。

DD511142号機は、1974年度第一次債務車両計画にて発注され、日立製作所笠戸工場で落成して、1975年6月27日に当時の北海道総局に配属、岩見沢第二機関区の配置とされるも、同年12月1日付では1141・1143の僚機と共に小樽築港区に転じて、主には函館線区間に運用されていた。
1974年度と云う年は国鉄の無煙化計画の最終局面にあたり、北海道や山陰地区に残存したD51やC57蒸機の一掃を目的とした、74年度本予算での51両と前記第一次債務計画での38両の計89両とは、1962年度が初年度であったDD51形式内燃機の単年度発注数では最大両数であり、以後1975・76年度と続いた発注は既に山陰地区のDF50にDD54の内燃機の取替用であった。
つまりは無煙化目的では最後に増備の一群となり、89両の内、1092-1103・1135-1169の45両がA寒地仕様車とされて、75年の1月から9月に架けて旭川・岩見沢第二・小樽築港の各区に投入、石北・宗谷線や道央地区の蒸機を放逐したのである。なお、1135号機のみは、5月に東新潟区に新製配置の後、9月までに鷲別区へと転じていた。磐越西線での夏季輸送に応じた措置であったろう。

小樽築港区へのDD51機の配置は、1973年4月の2両が最初の事例であるが、一般装備機であったこれは関西線無煙化用途を要員検修と道内の夏季旅客・秋季貨物輸送を兼ねたもので、年内には本来の配置区である亀山区へと去り、この年10月1日改正を以ての函館山線区間の完全無煙化は、篠ノ井・中央西線電気運転にともなう篠ノ井区および稲沢第一区からの25両(一部は短期間の五稜郭区や鷲別区配置を経て転入)と、1972年度第二次債務計画で新製の7両にて為されたのだった。
以後も増備は続くのだが、1974年7月の3両を除けば、何れも本来配属の前使用の多くて定着しなかった。上記の1974年度発注車からも1975年3月から6月に12両の配置があったものの、内8両が同年10月から翌1月の間に鷲別区や岩見沢第二区へと転出し、それに替わって転入したのが1141・1142・1143の3両だったのである。岩見沢第二との間でこの3両が差替えられた事由は分からない。
とまれ、1142号機は小樽築港区で11年近くを過ごし、年度末の民営化を控え継承体制を確立した1986年11月1日改正を以ての同区の乗務員区化に際して、連番で揃っていた1136-1143号機と共に岩見沢第二区を改めた岩見沢機関区へと転じた。この改正では旅客鉄道会社と貨物鉄道会社への承継車の振分けが行われ、それがどのような基準に拠ったものかは知り得ぬのだが、岩見沢区への配置には将来の特急機の座が約束されたのだった。

北海道旅客鉄道に所属したDD51機の25両が岩見沢区改め空知運転所に集中配置とされた1990年7月当時、本州連絡列車群の牽引は最大で7仕業に13両の使用だったから、重連の本務機となる確率はその半分、出区から帰区まで本務と次位補機の役目の入れ替わるだけの運用を上下別にすれば、さらに半分の25分の3(12パーセント)程度となる。けっして高い数字とは思えぬのだが、それにしてもこの機関車にはよくよくに出逢っていた。

新製後、最初の冬を迎えた頃の1142号機。121列車の旭川行きを牽いて銀山に到着した姿である。
小樽築港機関区に転じて10日足らずなのだが、既に同区配置車に特徴的なスピーカが設置されていた。蒸気暖房用接続ホースは使用中と云うことなのか、所定のホルダに掛けられていない。
付け加えさせていただけば、続く函館所のスハ32・スハフ32は、これが優等列車用であった当時を思わせる程、重厚に整備されていた。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by LightroomCC on Mac.

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