"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

渚滑 (名寄本線) 1970

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蒸機時代からの旧い鉄道屋ならご存知かも知れない。塩狩峠で一日を過ごした翌日を函館山線、例えば塩谷あたりと決めた場合、当時からつい最近の1989年まで、この200キロばかりの地点間を夜行列車を宿替わりに移動出来たのである。1972年3月改正ダイヤなら、塩狩を18時22分の323に乗れば、塩谷到着は翌朝8時05分の524Dで104列車に十分に間に合い、この間に何処かで一時的な「半駅寝」するでは無く、ずっと車中で過ごせた。
そのカラクリは名寄本線に在った。323は名寄へ20時03分に終着する。その23分後には札幌からの4605D急行<紋別>が追いついて、20時30分発のこれに乗換えれば、興部から普通1625Dとなった列車は遠軽着23時46分で直通し、23時53分に網走から到着する518列車<大雪5号>を捕まえられたのである。この逆コースも利用価値の在り、遠軽4時04分到着の517列車には4時21分発の名寄行き622Dが接続して、興部着の5時56分には興浜南線始発列車に乗れた。317列車<利尻>の利用なら午前2時前に名寄で降ろされて半駅寝の上、南線始発には到底間に合わない。
北海道均一周遊券(正しくは北海道一般用均一周遊乗車券第一種)の利用ならでは経路だったのだが、名寄本線遠軽口での始発・終着列車であった622Dと1625Dは、オホーツク岸の紋別や渚滑と札幌間を夜行急行での連絡目的の設定であり、4時台・23時台のルーラル線区としては異様に早く遅い発・着時刻もそのためだったのである。紋別や渚滑と札幌とは遠軽を回ると少しばかり遠回りだけれども、1967年4月の旅客制度改正から渚滑線内を含む名寄本線の紋別-渚滑間と新旭川以遠(旭川方面)の区間は選択乗車区間とされ、距離のやや短い名寄経由の運賃にて遠軽経由も認められていた。
同様の列車設定には、317・318列車<利尻>と音威子府で接続した天北線の721D・730Dが在り、浜頓別のほか興浜北線直通車も併結して北見枝幸と札幌間も夜行移動の有効圏内であった。遠軽接続と同じくオホーツク岸の都市であるのは偶然ではなく、内陸を経路とした石北・宗谷線夜行と沿岸とのアクセスは必須の要件だったのである。それは、名寄・天北線ともにかつてには網走へ稚内桟橋への夜行長距離列車の往来した幹線だった名残とも云えた。
余談ながら、この当時、前記のような明確な接続は取られなくとも、池田や美深、名寄、長万部など深夜帯に夜行急行の着発した接続駅では、支線区の最終でやって来て上りを待ったり、未明に下りを降りて始発までを過ごす乗客の多々見られたものだった。今は、全てが昔語りである。

名寄本線内での大駅とすれば紋別となろうが、規模ならば渚滑線を分けた渚滑が上回っていた。名寄上下本線に渚滑線の使用した副本線の他に貨物側線5線は、豊富な林産資源の輸送線だった渚滑線との貨車操配には必要な配線だったのだろう。確かに、構内にはその中継車や翌日の所要車は勿論、自駅の使用車に停泊車など多くの貨車が停まっていた。
蒸機の行き交う光景。名寄に向けて発車を待つ1692列車を横目に北見滝ノ上からの1792列車が到着する。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

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コメント

こんばんは。
いつも楽しませて頂いています。
多くの廃止されたローカル線に乗ることは叶わなかったのですが、こちらの名寄本線も一度で良いから乗ってみたかったと今でも思う路線です。
数年前に初めて遠軽を訪ねる機会がありましたが、乗り継ぎの待ち時間の間、名寄本線の線路があったであろう痕跡を探しながら町を歩いてみました。
往時を知らない私には、多分、としか見分けがつきませんでしたが、そのような形でしかこの路線に接することができなかったことが残念でなりませんでした。
「本線」という名付けに、特段の根拠はないのかもしれませんが、四半世紀前には既に、地域を跨いで結ぶ長大路線まで廃止に追い込まれたことに、改めて、鉄道の厳しい立ち位置を認識します。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc

  • 2015/08/07(金) 21:01:22 |
  • URL |
  • 風旅記 #O7xVy9HA
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

こんばんは、風旅記さん。
いつも、ありがとうございます。

全通した1921年から僅か8年ばかりではありましたが、ここは道都と野付牛、網走を結ぶ幹線交通路を担いました。
寝台車に食堂車も組成した内地へと連絡する長距離列車が運転したのですから、堂々足る「本線」だった訳です。
後に運転上の拠点と化す遠軽は、その中間駅に過ぎませんでした。
1970年代と云う時代は、本文にも書きました名寄経由での札幌-遠軽間の<紋別>や、逆に名寄-旭川間を遠軽回りで
結んだ<大雪>(線内は普通列車)、興部-網走間の<天都>に、その名残を見る程度でしたが、線内運行の貨物列車は
多くの財源を連ねており、幹線の片鱗は感じ取れたものでした。
そこに辛うじて間に合ったとは、つくづくに幸運と思う次第です。

  • 2015/08/09(日) 23:58:38 |
  • URL |
  • Wonder+Graphics #-
  • [ 編集 ]

いつもご教示頂きありがとうございます。
名寄本線、私は写真で見ることしかできませんが、いつか、その沿線であった町には行ってみたいと思っています。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc

  • 2015/08/29(土) 05:04:05 |
  • URL |
  • 風旅記 #O7xVy9HA
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Re: タイトルなし

こんばんは、風旅記さん。

いえいえ、とんでもございません。
風旅記さんがお生まれになるのが少しばかり遅かっただけのことです。
かく言う私自身も、いささか遅きに失したと感ずるところ頻りでありまして、
出来ることなら、ここを経路としていた寝台車、和食堂車組成の夜行列車を
この眼で見てみたかったものです。
おそらくは、米国製1C蒸機7650形あたりが軽快に牽いていたのでは、
などと想像を逞しくいたしておる次第です。

  • 2015/09/01(火) 23:03:27 |
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