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"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

帯広 (根室本線) 1976

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1948年7月に豊橋市からの申請を承認したことに始まる「駅舎およびその付帯施設に接着する施設の一部を部外者に使用させることを条件として、その建設費の一部または全部をその部外者に負担させて建設する駅施設」(鉄道辞典下巻1677ページ-1958年日本国有鉄道)である民衆駅の、全国で42例目(道内では札幌・釧路・旭川に続く4例目)として、1965年8月に着工し66年11月16日に使用開始の帯広駅舎は、この方式による建設の末期にあたり、公共企業体として発足間もない日本国有鉄道の窮乏した財政から進まぬ戦災駅舎の本格復旧や、復興の都市計画からの移転や改築を自治体から求められての資金導入承認とは既に状況の異なっていた。国鉄は、この時期に至ると承認団体の駅ビル運営による収益性に着目し、自らの直接出資を伺って国会に国鉄法の改正を働き掛けていたのである。
戦災での焼失を免れて老朽化し、戦後の輸送量増加に狭隘となっていた帯広駅舎建替には、国鉄が民衆駅制度利用を帯広市に働き掛け、1965年2月に市を筆頭株主とする資本金2650万円の帯広ステーションビル株式会社の設立に至るも、国鉄も鉄道弘済会・日本食堂など関係4社をダミーに用いて資本参加し、それは資本比率で帯広市の22.6パーセントに対して合計で41.9パーセントに達して主導権を留保していた。
これにて4代目駅舎となったRC構造地上3階、地下1階のビルディングは1階部分を駅業務施設とし、地階の機械室の他はステーションデパートを名乗る単体小売店(テナント)の集合店舗、2階半分を帯広ステーションホテルのフロントにロビーと事務室に充て、残り半分に貸席と飲食店からなる帯広老舗街が入居、3階が和室19室・洋室17室の客室に結婚式場のホテル施設とされ、総床面積10061平米の内、2910平米を国鉄が、7151平米をビル会社が使用するところとなった。
ビル会社の経営は、日本経済の高度成長期とも重なり、デパート、ホテルともに順調に推移し、特にホテル運営は同社収益の6割を占める安定事業となり、1972年12月31日には4階部分を増築しての客室の増設もなされていた。

小樽-釧路間普通列車、1975年に<からまつ>と命名される夜行で乗り降りしていた帯広に、場合によっては宿を取るようになるのは、その頃のことで、当然にステーションホテルを選んでいた。手元に残る領収証には宿泊税込みにて2100円とあり、ベッドにデスクにテレビ(しかもコイン式の有料)の在るだけの簡素な部屋ながら、当時の貧乏旅行にあっては大変な贅沢だったと記憶する。但し、これがバス付の部屋だったか、バス無しを選んでのことかは失念している。
写真は、帯広場内にゆっくりと進入して来る5D<おおぞら3号>。函館から8時間を走り続けての到着である。ホテルにチェックイン後に必要機材だけを手に構内に出るのが恒例であった。
先日、函館 (函館本線) 1990 にも書いたとおり、昼夜分たずに構内作業の行われていた構内は照明塔の灯りに煌煌と照らされ、日中と同じ感覚で写真の撮れた。

帯広ステーションビル株式会社においては、開業時に続いて1969年、1972年にも増資の行われた結果、その資本金は2億2千万円となって、5200万円を出資に至った帯広市は23.6パーセントの出資比率にて筆頭株主に違いはなかったのだが、国鉄系4社も合わせての41.9パーセントにも変わりなく、それは四半世紀を経て、資本を引継いだ北海道旅客鉄道の戦略に乗せられた挙げ句の自己破産の遠因ともなった。駅高架化に際して建設した高架下東西2館の施設は、今や北海道旅客鉄道子会社の所有である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/60sec@f1.8 NON Filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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