"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

森 (函館本線) 2000

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以前に 森 (函館本線) 1969 に書いたこととの一部重複をご容赦願いたい。
森-室蘭間航路とは、開拓使が札幌本庁と函館出張所との間に砂利敷舗装の西洋式馬車道である札幌本道を開通するに際して、その速成から渡島半島基部や噴火湾北岸の山道開削を避け、湾口の茅部郡森村と室蘭郡「新室蘭」のトキカラモイを海上連絡としたのに始まる。
森村の海岸には延長75間(≒136m)/幅21尺(≒6m)の桟橋が茅部産の栗材(茅部栗)を用いて築造され、1872年10月より開拓使附属船の「稲川丸」(15トン)が定期運行を開始したのだった。なお、桟橋は翌1873年に全延長141間4尺(≒257m)のT字形に追設される。
この時点では函館札幌間連絡に供される地域航路に過ぎなかったけれど、同じく1873年にやはり開拓使の手により青森-函館間定期航路が開設されれば、本州連絡の主要経路の一部に組込まれるのだった。
1883年には開拓使の直営から民間へ委託されながら、基幹輸送路として機能した航路の状況は、1891年9月1日に日本鉄道が青森に達し、翌1892年8月1日に北海道炭礦鉄道が岩見沢から室蘭(現東室蘭、但し位置が異なる)を一挙に開通すると一変する。青森-函館間航路を運行していた日本郵船が、両鉄道間の連絡を意図して航路を室蘭へと延長、所謂三港連絡航路としたのである。本州方面と道央との青森-室蘭間航路を挟んでの鉄道連絡は、その時間的距離の短縮はもとより輸送力の大幅な向上をもたらし、森-室蘭間航路は基幹輸送路の地位を譲らざるを得なかったのである。これには、森町史は1893年2月に航路廃止と書くのだが、函館市史には運行継続と取れる記述のあり、また別資料には休止との記載も見て取れ判然としない。とまれ、大きな打撃を被ったには違いない。

これの復活は1903年6月28日の北海道鉄道(初代)の函館から森への到達が契機であった。函館と室蘭連絡は恵山岬を大きく迂回する直行航路よりも函館-森間を鉄道利用とした方が時間的に優位と知れたのだろう。航路は北海道鉄道国有化後の1908年に再開され、位置的に鉄道駅構内に取り込まれた桟橋へは本屋から連絡通路の整備され、桟橋待合室も置かれたと云う。それは民間の経営ではあったものの鉄道連絡船そのものと云えそうではあるが、開設時点で鉄道は小樽を経て札幌・岩見沢に達しており、着工の目処の就かずにいた長万部輪西間鉄道の代替との位置づけも含めて地域内で完結する輸送路であったろう。実際に1928年9月28日のそれの長輪線としての全通に際して廃止されたのだった。

先頃、この航路を90数年を経て復活する動きの報道がなされた。2015年5月26日付の北海道新聞によれば、胆振・日高管内の自治体や各観光協会、商工会議所などにて組織する「北海道新幹線×nittan地域戦略会議」が、北海道新幹線の札幌開業時にはそのルートから外れることを見据え、2016年春の新函館までの延伸を捉えて森-室蘭間に海上連絡路を設定、在来線鉄道や高速道路に比しての大幅な時間短縮と、併せて室蘭沖を回遊する海棲哺乳類の観察を組込んで、観光客を直接に誘導するルート整備を図ると云う。そして、2015年夏にはその実証実験を行うと在った。
その詳細は同会議のWebSiteにもまだ発表されていないが、森側の発着地となるだろう森漁港と森駅には距離の在ることや、観光にレンタカー利用が一般化した現在に船腹にはフェリィを要すると思われるなど、困難も予想される。結果を待ちたいところである。

島崎川橋梁から続く海沿い区間での1列車<北斗星1号>。排気を噴き上げながら重連の機関車が加速する。
画角の数度の既出をお詫びせねばならない程、ここには何回となく立ったのだが、下り本州連絡列車群の通過する早朝の好天に恵まれた記憶はあまり無い。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/60sec@f4 Fuji LBA2 filter Ektachrome Professional E100VS [ISO160/0.5EVpush] Edit by LightroomCC on Mac.

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