"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

広内信号場-西新得信号場 (根室本線) 1980

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ルペシペ(ru-pes-pe)は「道に沿うて下るもの(川)」の意であり、転じては源流へと谷を遡り分水嶺を越えて反対側の水流源流域へと至る通行路を指した。夏に越えて往く道をサクルペシペ(saku-ru-pes-pe)と云い、積雪期に通行可能となる通路をマタルペシペ(mata-ru-pes-pe)と呼んで、サクルー・マタルーとも略された。険しい分水嶺越えでの上流の道はペナルペシペ(pena-ru-pes-pe)であり、より下流の道はパナルペシペ(pana-ru-pes-pe)である。
道内には、行政区画の町名ともなった留辺蘂を始めとして、これらに由来する地名が各所に残されており、さらに多くが現在までに失われただろうから、それは無数に存在したとして良かろう。全てが先住民族の古の交易路であった。

根室本線が石狩から十勝へと脊梁山脈を越えて往く狩勝峠もルペシペであった。それは、落合から遡る空知川支流の川の名に残っている。現行の国土地理院地形図にはペイユルシエペ川と記されているが、かつてにはパンケユクルペシュペ(panke-yuk-ru-pes-pe=川下の鹿道の意か?)と呼ばれていたのである。その谷を登り詰めた位置が標高640メートル余りの鞍部となっており、十勝側はペンケシントック(penke-sittok)川の源流となる。先住民族の交通路は急斜面を降りて、その谷を下っていたのであろうが、旭川釧路間官設鉄道の最後の区間として1907年9月8日に開通した落合-帯広間線路は勾配を避けて、新内川源流斜面を曲線を描きながら迂回していた。
ここには1931年に至り国道も通ずるが、それ以前の道路はずっと南側の臥牛山と尾田朱山の鞍部、現在に北海道横断自動車道黒松内釧路線(道東自動車道)がその直下を第二狩勝トンネルで通過する標高690メートル程の峠に開削されていたのである。「石狩道路」と呼ばれたのがそれであり、落合から串内を経て広内から清水、芽室へと至る経路を1898年10月に芽室側から着工し、翌年に富良野までを開通、峠の両側のクシナイとシントクに駅逓が置かれていたと云う。
この道路の経路選定にかかわる文書(北海道殖民地選定報文-1891年)に見ると、現在のルウオマンソラップチ(ru-oman-sorapchi=奥の方に往く空知川の意)川であるルウマソラチ川を遡った支流にルペシペとの記述が在り、このルートも古くからの交通路だったと知れる。ここでのルペシペとは現在の二股川のことである。
鉄道が落合までを開通した1901年以降は、十勝原野以東地域への入植路として、またそこでの農産品を鉄道に連絡する唯一の経路として荷馬車などの行き交ったらしいが、前述の釧路線の帯広に達せば、すっかりと寂れ廃道同然となり、狩勝峠に国道の通れば尚更に打ち捨てられたのだった。現在に北電の送電線保守通路の一部は当時の開削路と云われている。
1966年9月30日に開通の狩勝新線は落合からルウオマンソラップチ川の谷を上り、隧道の位置こそ北寄りだけれど、広内を経由するなど、同じような経路を採るのは先祖帰りのようで興味深い。
なお、その線路が広内陸橋から続く盛土築堤区間で交差する(通称の斜めガード)新得市街地から広内信号場への道、この道路だけがかつての殖民区画に逆らうようにそれを斜めに貫いているのだが、これも当時の石狩道路の名残である。

雪煙を引いて広内陸橋に続く盛土築堤を駆け下りて来るのは425列車、釧路行き。
今は西側も東側も防風柵に囲まれてしまって撮れない。斜めガードは撮影位置の直ぐ後方になる。

[Data] NikonF3+AutoNikkor180mm/F2.8C 1/500sec@f4 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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