"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

トマム信号場 (石勝線) 1982

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鵡川と聞けば日高本線の停車場を思い浮かべるのは鉄道屋だからだろうが、本来には駅の所在地である勇払郡鵡川町(現在には穂別町との合併により「むかわ町」)の由来であり、そこに河口を持つ川の名である。狩勝連山のひとつ、狩振岳の北西斜面を水源に延長135キロを流れ下るには、夕張山地をトンネルで貫いた石勝線がそれの谷を遡ることになり、些か意外感もある。その上流域が先住民族が湿地を指して呼んだトマム(tomam)に当て字した苫鵡である。自らの形成した谷底平野を蛇行する鵡川の川岸が低湿地を成していたのであろうか。

この山中に開けた僅かな平坦地を現在の道道136号夕張新得線は緩い曲線を挟み乍らもほぼ直線で通過している。かつてに拓殖のインフラとして開削されたこの道路を基線として植民区画の定められた明らかな名残である。それは占冠村史に依れば1900年のことであり、入植は1902年から始められたと記録されている。
植民適地の選定と区画設定は、1886年1月に北海道庁の設置からまもなくに開始され、全道遍くに及んだ事業に関わらず時間を要したのは、この地が鵡川を遡るにもニニウの峡谷と鬼峠に阻まれ、石狩側から神居古潭なり空知大滝の難所を経て富良野盆地に至り、さらに金山峠の踏分道を延々と越えた上に鵡川上流を目指して辿り着く最奥地だったからであろう。岩見沢からの官設鉄道が1898年に旭川へ、そして1900年12月の鹿越開業を経て翌1901年9月3日に落合に達すれば、落合からルウオマンソラプチ川の谷筋、もしくは幾寅峠越えが最短経路となり、1902年12月6日の幾寅停車場の設置はここでの拓殖計画と関連してのこととも思える。
しかしながら、過酷な気象条件とあまりの交通不便に入植は進まず、本格的に開拓の進むのは、戦後の「緊急開拓事業要領」による復員兵や引揚者らの入植以降のことであった。

「鉄道敷設法別表」に第142号ノ2項として法定の御影辺富内間鉄道、国鉄部内で通称の日勝線が、日高山系を沙流川ではなく鵡川を辿るよう計画変更された経緯や時期については調べ得ていない。石狩十勝連絡線として1957年4月に調査線となり、別表134号に法定の金山登川間鉄道、計画線名での金山-紅葉山間紅葉山線と共に、途中占冠で接する新得-日高町間狩勝線として1959年11月9日に工事線へと編入された時点で苫鵡地区の通過は既定であり、そこには滝ノ沢、下トマム、上トマムに串内の4駅の設置が予定されていた。
狩勝線の占冠-新得間工事計画の認可された1961年当時の占冠村トマム地区には農業・林業関係者を主体に892人が暮らしていたから(1960年国勢調査)、その利便には当然の計画であったろう。けれど、その直後よりの高度成長期を通じて歴史の浅い戦後入植者たちの離農が相次ぎ、国内林業の衰退もあって、これら鉄道が石勝線として開業を迎える頃には124人へと減じ(1980年国勢調査)、並行道路の整備からも予定駅は、近隣に保養地開発計画の存在した上トマム、開業名の石勝高原を除いて全て信号場とされたのだった。

開業間もない頃の石勝線を上るのは臨時急行8416D<まりも52号>。
<まりも>は石勝線の開業に際して根室線急行に復活した愛称である。高速走行の短絡線として開業の石勝線ではあったけれど、出力不足のキハ56/27とあっては札幌-帯広間に3時間50分あまりを要して、それは富良野回りにて残存した<狩勝>の4時間10分と大差なかった。
画角後方に見えるのが、下トマム駅として計画されていたトマム信号場である。上記の民間の保養地開発計画名称から付名の石勝高原を1987年2月1日付にてトマムへ改称するに際しホロカ信号場と改められた。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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