"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

上野幌-北広島 (千歳線) 1990

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札幌市の経済発展を背景とした千歳線沿線における公的宅地開発事業は、1960年代後半に開発面積が50haから100ha規模の千歳市東郊地区、恵庭市駒場地区を端緒に(これに先立つ北広島市輪厚団地の市営住宅開発があるけれど、これは沿線域を外れる)、1970年には広島町の旧市街地東側に広がる丘陵地での北海道主導の440haに27000人の居住を目指した大規模開発が始まり、以後、民間を含めて続々と計画の続いた。
これにて、同町を例に採れば1970年に9746人であった人口が1975年に22264人に急増するなど、全ての開発計画が札幌への通勤線に依拠した国鉄千歳線の沿線人口は著しく伸長したに関わらず、国鉄側の対応は必ずしも開発事業者の思惑や利用者の期待どおりでは無かったのである。

この間に千歳線は、1968年10月に予定した全線複線供用が苗穂-上野幌間の線増方式決定に手間取り遅延しながらも、1973年9月9日の同区間を最後に施行されるなど線路容量の飛躍的に向上したのだけれど、それはあくまで対本州連絡輸送に重きを置いてのことで、以降の輸送力拡充は貨物輸送を主体に長距離旅客輸送に振向けられ、線内輸送は1972年3月改正時の上下24本列車が1975年3月改正に至っても2往復の増発を見たのみであり、朝の通勤時間帯でもキハ21や22を連ねた列車の4本が雁行するだけの有様であった。これには、完成した分譲住宅に全く募集のかけられないなど沿線の宅地開発事業の計画進行の遅滞を引き起こし、道議会で問題視されるなど新聞にも多々取り上げられるところともなっていた。
運行の大幅な増発は電車運転を前提としていた国鉄北海道総局も1964年1月に当時の北海道支社へ設置の「北海道電化計画委員会」が立案した1971年度からの遅れを憂慮しただろうが、代替案の気動車の増備は電気運転の実現すれば手戻りとなるだけに踏み切れなかったのである。
電気運転化工事の着工に至らなかった事情は、以前の記事 張碓-銭函 (函館本線) 1974 に書いた通りであり、国鉄も道も、また利用者も国策に翻弄されたゆえであった。
それのようやくの実現は1980年10月改正を待たねばならなかった。一挙上下60本運転への増発は現在の頻発運転に比すれば隔世の感もあるのだが、この飛躍的利便の向上を見越してのことか、その年に広島町の人口は4万人を突破したのだった。

R=800M曲線を旋回して厚別丘陵越えのサミットに差し掛かるのは2778M、千歳空港行き。
幾度かここにも書いている通り写真屋として幹線の電化区間をあまり好まぬ上に、実を云えば鉄道屋としても電車は全くの専門外である。なので、北海道へとやって来て、それを意識的に撮ることはほとんど無い。後方からの斜光線で知れるだろうが、これも8002列車を待つ間の習作カットである。
線内列車自体の増発も在って過密化する千歳線の線路容量拡大には、最高運転速度の130km/hを伺っていた気動車列車に伍する速度に、各停列車の加減速性能向上を要して1988年度に開発されたのが721系列電車の一群であった。そればかりでなく、接客設備から車体デザインに至るまでのコンセプトは北海道旅客鉄道の意欲作として良い。発足当初には同社が輸送サーヴィス業者として正しい道を歩んでいた左証でもあろう。
高速走行に「タラコ唇」状を呈する貫通幌の小樽方定位には、撮るなら苫小牧/岩見沢方面行きに限る。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec.@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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