"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

七飯 (函館本線) 1970

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[外伝]の記事 ホテル オークランド でも少し触れたとおり、七飯に始めて降り立ったのは1970年の冬、そこでの新しい鉄道景観となっていた延長913メートルの七飯高架橋での撮影を目論んでのことだった。ただし、これには前史の在って、帰省先の水戸とを往き来した列車で幾度もそこは通過していたし、1965年の秋には親父に連れられての残り1年となった仁山越えの補機撮影の際、ホームには降りて構内や駅舎の佇まいを眺めてはいたのである。
その当時の駅本屋は勿論に木造で写真を撮っておかなかったのを悔やむのだが、Webを検索すると地元七飯町の七飯歴史館の発行する広報紙「ぴちゃり」第56号に1960年前後撮影とされる写真を見つけた。
それは1970年当時に降りた本屋に違いなく、1902年12月10日の開駅時以来のものとも思うけれど、「道南鉄道100年史」(北海道旅客鉄道株式会社函館支社, 2003)に所載の建物の一部の見える写真と比較すると規模の大きくも見え、1920年と記録の残る構内拡張の際の改築が正解であろうか。
藤城回り線の開通に先駆けては跨線橋の設備され、待合室では弘済会の売店が営業していた。「ぴちゃり」の記事にも藤棚が触れられているが、70年代にそれはより成長して、駅務室の入口へはそれの長いトンネルをくぐり抜けるような有様だったと覚えている。

1970年代の初めとは、函館市の北に接していた亀田町がそのベッドタウンとして人口の5万人を越え、それが七飯町にも及びつつあった時期である。1970年10月1日の国勢調査での七飯町の人口16745人は、1975年の同調査で18710人、1980年には21267人に達する。当初の宅地開発は亀田町桔梗と接した国道5号線の大中山地区で始まった様子だが、やがては北上して中心市街地周辺に及ぶ。ここでは鉄道での利便からなのか駅近くが選ばれて現在の緑町地区の農地が転用され、そして駅の北側、戦時下に藤城地区を経由する勾配改良線の通過が計画されていた現本町地区が対象とされた。敗戦で中断していた工事を再開しての藤城回り線の着工は1963年のことで、それには当初計画を大きく北へ迂回する線形の高架橋が含まれていたから、ここを市街地化する七飯町の都市計画は、遅くとも1960年前後には決定されていたことになる。

仁山回りの本線を七飯に向かうのは154列車。D52の仕業のはずがD51の牽いて来て些か落胆したカットである。白煙に隠されて高架橋が在り、それへの築堤部の斜面から撮っている。
渡島大野から横津岳より続く斜面の裾野に位置した七飯へは標準勾配の9.6パーミルを上り、蒸機は給気運転であった。
背景は現在の本町1丁目にあたり、そこには一面に住宅の建て込んでいるのはご承知の通りで、古い鉄道屋には隔世の感が強い。改めて写真を詳細に見ると雪中に測量の杭位置を示す標識が立っており、この頃、既に農地の耕作は放棄されていたのだろう。
後方に僅かに見える踏切道の細道は、今や2車線の道道676号七飯大野線となり、同位置に設けられた七飯架道橋で線路下をくぐり抜けている。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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