"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

鬼鹿 (羽幌線) 1979

onishika_06-Edit.jpg

1596年から1614年の慶長年間に、松前氏によって開かれたルルモッペ(rur-mo-ot-pe)場所、それはマシケ(mas-ke)からトママイ(toma-oma-i)を含む広大な区域だったのだが、幾つかは所在したはずの交易拠点のひとつが、先住民族がポンオニウシカペッ(pon-o-ni-us-ka-pet)と呼んだ現在の鬼鹿広富地区付近とされる。
「森の中の川」を意味する地名の通りに今の番屋の沢川にあたる原生林からの流れの在って、交易箇所の置かれる程であるから、水流沿いには彼らの小集落(コタン)の散在していたことだろう。

和人は、オニウシカペッをオニシカと聞き取り、交易の度に出向いたとは云え、その進出地の証には1714年に弁天社を置き、1786年には厳島神社も創建、和人地名としての鬼鹿の起こりである。
場所が知行地としての交易区域から請負制を経て商人の経営する漁場へと変容し、1840年に漁民の出稼ぎが許可され、そのまま越年しての定住者の現れる以降に和人が居住地としたのもポンオニウシカペッであった。この時代まではそこが鬼鹿だったのである。
沿岸への定住者の増加には、そこが鬼鹿村と、より南側の今の鬼鹿秀浦付近の集落が天登雁村と呼ばれるようになり、それは開拓使の成立以降にも引継がれて1880年には、その境界近くであった天登雁村字番屋の沢に両村の戸長役場が設けられた。此の時、鬼鹿村 62戸/892人、天登雁村 31戸/667人、と記録にある。

一方で北へ1キロばかり、現在の鬼鹿中心市街地の一帯はオンネオニウシカペッ(onne-o-ni-us-ka-pet)と呼ばれた大きい方の水流の河口付近にあたり、幕末期に至って漁場の開かれ、オンネオニシカは鬼鹿と区別して温寧と呼ばれていた。オンネオニウシカペッが今の温寧川である。
ここへも以降に定住者の増えていたものと思われ、1881年に両村の連合小学校が開かれ、そこの海岸に杭を打って和船の繋留地とすれば、1884年には戸長役場も移転し、やがては中心集落となって往ったのである。そして、1906年4月1日付での鬼鹿村への二級町村制施行には天登雁村を併合、役場が置かれた。ただし、地名がポンオニシカの留萠郡鬼鹿村大字鬼鹿村字鬼鹿から移動することは無く、そこは永らく鬼鹿村字温寧のままであった。
この際の鬼鹿村の人口は戸口571戸に2981人と在り、その氏神であった厳島神社も1908年に旧天登雁村から温寧市街の後背海岸段丘上に遷座していた。

以前に 山越 (函館本線) 1999 に書いたように、明治政権以来の戦前の時代、国家管理の下、国民に天皇への隷属を強いる装置として機能した神社神道の歴史には個人的に複雑な想いがあるのだけれど、鳥居の向こうに神域を拝めば参詣せずには居られない。
鬼鹿へと幾度も通った1970年代当時の厳島神社への参道は、整備された現在と異なり羽幌線線路の築堤に刻まれた細道だったと記憶するけれど、冬にも参拝する人の踏締め道となっていて高台の境内には容易に上れたものだった。流造りの社殿に参り、そこを横切り続く雪原に踏み込んで往くと眼下の温寧市街地から日本海を一望として、ポイントの選定に困ればそこに立ったものだった。
いつも積雪期ばかりで、その雪原に何が埋もれていたものか知る由もなかったのだが、改めて調べるとかつての農地が放棄されて笹の原野に還った位置だった様子である。どおりで平坦だったはずだ。
市街地を往くのは853D、幌延行き。冬季の訪問で、この日は珍しくも晴天に恵まれた。
背後の海岸には後に第二種漁港として鬼鹿漁港が築造され、この景観は失われている。何より、そこに鉄路は無い。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://northernrailways.blog.fc2.com/tb.php/773-efbde2ba
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。