"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

国縫 (函館本線) 2002

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1988年3月改正で設定された<北斗星>の定期運行は27年で尽きることになった。
既に北海道との旅客基幹輸送が航空機となっていた時代に観光需要を期待しての設定であったから、需要喚起に絶えず追加投資を行わなければそれの維持は難しく、とっくに命脈の断たれて不思議は無かったのだが、運行開始から暫くが日本経済のバブルに踊った時期と重なり、それの弾ければ相次ぐ夜行列車の消滅に鉄道旅行がノスタルジックに語られる時代が到来して幸にも生き延びたとして良かろう。
その運転に関しては、既に多くの記述がなされているが、個人的にはそれらのあまり触れない運転前史に趣味的興味がある。前史と云っても、1988年をたかだか数年を遡るだけだが、国鉄部内のことゆえ公開された資料は少ない。この機会に当時の関係者が回顧記事でも書いてくれぬものだろうか。

興味のひとつは、後に<北斗星>と命名されることになる上野-札幌間直通列車の具体的計画がいつに進められたか、である。
1953年に『鉄道敷設法』別表第二項の二に予定線として追加された「靑森縣三厩附近ヨリ渡島國福島附近ニ至ル鐵道」、即ち青函隧道に関わる区間は1971年4月1日付を以て工事線に昇格、鉄道建設公団による工事実施計画の運輸省認可は1971年9月のことであった。これには新幹線規格への設計変更が別途指示されており、翌1972年9月には青森市-札幌市間の北海道新幹線基本計画が示され、1973年11月にはその計画決定も公示されていた。この時点では、1980年代初頭と目されたトンネルの開通時に東京から札幌に至るのは新幹線列車だったのである。
ところが、道内での優先経路選定の遅れや財源問題から着工の見送られた挙げ句に、肝心の東北新幹線も当初予定を6年遅延した上、大宮暫定発着にてようやく開業した1982年度には、盛岡以北札幌までの整備新幹線区間すべてが国鉄の財政悪化を事由に凍結されてしまう。
一方で青函トンネルは1978年10月に北海道側陸底部が、1981年7月には本州側も貫通するなど工事の進展しており、鉄道建設審議会の答申を経て、運輸省より1981年10月に当面にそれを在来線が使用するとの基本計画変更の指示がなされ、公団は津軽線および江差線を取付線とする工事実施計画変更の認可を申請、1982年7月にこれを得ていた。
これらの時系列から類推するに、北海道新幹線の1980年代開業が絶望視され始めた1970年代後半には国鉄部内で在来線運行の認識があり、直通寝台列車の研究も遅くとも1980年代初頭には始められ、1985年3月10日の本坑貫通に1987年度の開業が視野となれば、85年度内には運転計画・車両計画ともに一定の基本方針の示されていたと推定される。
当時に国鉄は、財界の意を受けた中曽根政権による国民財産の収奪たる分割・民営化を迫られ、この年の6月には独自の再建案を示して反対していた総裁仁杉巌が更迭され、中曽根子飼いの運輸官僚杉浦喬也が送込まれるなど包囲網の狭められており、部内認識もそれを不可避とすれば、運行開始時点で北海道線承継会社と本州線承継会社との2社直通運行となることも織込み済みであったろう。

検討の経過や決定されたであろう方針は公表されていないのでわからない。輸送には実用的と思われる新幹線接続の盛岡発着案がどの時点まで持たれていたかや、上野発着とリンクしたはずの食堂車組成など興味深い事項のあるのだが、個室式A寝台車の1986年度内での5両出場から、運行は当初から定期2往復を予定と推定するのみである。このあたりの詳しくは次回記事に続けたい。
(この項 札幌 (函館本線) 1991 に続く)

右に旋回しながら国縫を抜けて征くのは、3列車<北斗星3号>。計画時の本州線会社受持運用、設定時の5列車、現行の1列車に相当する。
幾度かの既出画角は無雪期ヴァージョンにてご容赦戴きたい。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/250sec@f5.6 C-PLfilter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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