"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

小沢 (函館本線) 1975

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北海道を旅して鉄道沿線にも廃校を見るようになったのは1980年代から此の方のことである。けれど、小学校の統廃合はその時代に始まったわけでは無い。

道内のルーラル地域における小学校は、拓殖の初期から入植者自らが設けた教習所に端を発する事例も多く見られる。定住を意に決していた彼らにとって子弟の教育は最大の関心事だったのである。富国強兵を国策とした新政府もまた、国民管理の拠点にそれを要して入植の進展と共に開拓地には遍く、当時に尋常小学校と呼ばれた初等教育機関が設けられたのである。
戦後には「緊急開拓事業要領」による開拓入植の進展に、成立間もない文部省も戦後教育に熱心であった時代ゆえ、そのような開拓地にも次々と分校の開かれて往き、道内では1960年度の2343校でピークに達する。
以後に減少に転ずるのは、迎えた経済の高度成長期に早くも農村からの人口流出の始まったことを意味して、社会構造の変革からもそれの続けば70年代に架けて統廃合が進展したのだった。炭鉱の閉山も関係していようが、1968年度から72年度への4年間などには実に200校が失なわれている。
この時代の統廃合は山間奥地が中心であったゆえ、鉄道線路から離れない鉄道屋にはそれの見えなかっただけであり、1980年代に人口の集積していたはずの鉄道沿線地域に及ぶに至るまでの認識の不明は恥じるしか無い。
それは農村や中山間地集落の縮小に加えて劇的に進行しつつ在った少子化による児童数の減少を背景にしていたのである。調べてみて驚いたのだが、児童総数は1982年度を最後に前年を上回ることが無くなっており、この時代には廃校となった分校の児童が数キロ先の本校へと徒歩で通う姿などの現れていたのだが、今度は経済論理により「政策的」な統廃合の進められるところとなったのである。先の1982年度の1802校は30年後の2013年度に1154校にまで減じた。この間、毎年にほぼ21校ずつの失われた計算になる。
地域コミュニティの拠り所となっていた学校の消滅が、どれほどの喪失感を住民に与えたかは想像に難く無い。それは例えば鉄道や駅の廃止など細微とする程であったろう。

小沢街区の外れには共和町立小沢小学校が所在していた。1903年1月15日の開校は鉄道到達の1年程前であり、それを見込んでの開拓入植の続いていたのだろう。「小学校令」(1900年8月20日勅令第344号-通称の第三次小学校令)に基づく小沢村戸長役場の尋常高等小学校としての設置であった。
函館本線の線路が校庭の北側を通過して、それは校庭への植樹の落葉する冬に限られたのだけれど、木造平屋の好ましい校舎を鉄道との写材にさせて貰っていた。この日は校門の側から、何処の学校にも在った二宮尊徳像を画角に列車を待ったのだが、天候の急速に崩れて吹雪模様となってしまった。
樹木が些か邪魔をするけれど重連のシルエットは104列車<ニセコ1号>である。

小沢小学校は1981年度末を以て、周辺5校と共に国富地区に用地を求めて開校の東陽小学校に統合されて廃校となった。趣の校舎は解体され、跡地には体育館建物を流用した小沢体育館と小沢ふれあいセンターが建つ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250@f4 NONFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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コメント

こんにちは。
今日も、興味深く記事拝読致しました。
鉄道が地域を縫うように走っていた時代と比べて、今では在来線さえ、都市間輸送の比重が極度に高くなっているように思えます。
「秘境駅」という言葉が流行っているようですが、そのような駅の異端さが魅力になっていること自体が、奇異なことですね。
本当は、人の匂いのある姿こそが、駅や鉄道の素晴らしさではないかと…
今の地方の小駅には、もはやその名残を感じ取ることしかできないのかもしれません。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

  • 2014/12/19(金) 15:16:25 |
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  • 風旅記 #O7xVy9HA
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