"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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静狩 (室蘭本線) 1995

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1928年9月5日付の官報第509号に掲載された、それの全通にともない既設の長輪西線を1928年9月10日より長輪線と改めるとの告示(1928年9月5日鉄道省告示第183号)には、敢えて「長輪」に「おさわ」とのルビの振られている。停車場名には必須の記載ではあるが、線名には異例であった。この事実は長輪線の名称が建設線名として文書に著されて以来、その読みに混乱を生じていたことを意味して興味深い。

1919年2月の第41回帝国議会にて可決の『北海道鉄道敷設法中改正法』(1919年3月25日法律第21号)により同法第二条に規定の予定線に追加、同年4月1日付にて早くも北海道建設事務所の所管に組み入れられた長万部輪西間鉄道は(1919年3月31日鐵道院告示第16号)、建設線名を慣例に従って両停車場名からの一字ずつにて長輪線と付名され、やがては営業線名にも引継がれた。
アイヌ民族による o-samam-pet(オサマムペト)に長万部の当て字には「長」の「おさ」読みは自然とも思えるのだが、どうしたことか「ちょうりん」「ながわ」の読みが広まるに至ったのである。
その頃には地名の語源など多くには忘れ去られ、長万部の実際の発音である「おしゃ」も影響していようが、個人的な乏しい経験ながら、一定年齢以上の道民に尋ねれば大半が「ちょうりん」と覚えており、これに地域差のないのは、当時のマスコミ報道の何らかの誤謬に起因するものかもしれない。「ながわ」は長万部も輪西も遠い北国とする内地での読みにも思える。ちなみに「おさわ」との返答は聞いたことが無い。
先の官報での例外は、全通により全国的ネットワークに組み入れられるに際して、「おさわ」の正当の明確化を迫られてのことである。しかしながら、一度広まった誤りの修正は容易でなく、1931年4月1日付での室蘭本線編入は、その名称の消滅を図ったのが真相であろう。

これは現在にも尾を引いており、前記の官報告示を知ってか知らずか、鉄道省北海道建設事務所が1928年に発行した「長輪線建設概要」を収蔵する図書館でのそれの読みは、道立図書館が「ちょうりん」、北大に商科大の大学図書館が「ながわ」である。遠い昔のこととは云え当事者だったはずの鉄道部内からの記述にも、わざわざ「ちょうりん」とルビの振られるのに接したことさえある。

長輪線の長万部-静狩間は、1919年4月から測量に着手して7月に線路選定を終え、11月に着工に至った。大きな構築物は長万部川への架橋程度だった平坦線の僅か10キロ余りに1923年12月10日の開業まで4年もの工期を要したのは、静狩付近まで続いていた泥炭地(静狩原野)を避けて経路とした海側砂堆地と、静狩停車場の位置からその付近では避け得なかった泥炭地の地盤改良に手こずったゆえであった。
当時にそれに用いる土砂の現地調達が原則であり、現在まで国道37号線の静狩跨線橋付近から14号農道付近まで室蘭線海側に残る幅20メートル程の掘削地形は、その際の土砂採取地の痕跡である。主にはその位置の路盤安定に投入された。
写真は、静狩での定番ともなった静狩跨線橋から望む4061列車。
高さの在る視点の採れない長万部-静狩間では希少な位置なのだが、通信線柱が下り線際に移設された昨今には少しばかり窮屈になってしまった。画角の数度の既出をお詫びする。
画角左に土砂採取地跡が写り込む。

[Data] NikonF4s+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f11 FujiSC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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