"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

常盤仮乗降場 (天北線) 1985

tokiwa_02-Edit.jpg

戦後に北海道の国有鉄道路線上には、その鉄道景観を特徴付けることになった仮乗降場の多数が設けられた。どの施設も地方機関の限りにおいて設置されたに違いはないが、1949年6月1日の日本国有鉄道発足を境に、前後ではその性格は異なったのだった。
これは、2013年6月に 安別仮乗降場 (天北線) 1985からシリーズで記述した仮乗降場に関わる記事の補遺である。

アジア太平洋戦争の敗戦直後より日本国有鉄道発足までの仮乗降場の開設は、戦地からの復員や外地よりの引揚げによる人口動勢に端を発していた。1945年から47年までの2年間に、実に622万人にも及んだこれら人々の収容と人口増にて危惧される食料難に対して1945年11月9日に閣議決定された「緊急開拓事業実施要領」による開拓入植地域の交通手段として鉄道駅の必要とされたのである。当時に国有鉄道を管轄した運輸省鉄道総局には多くの新駅設置の請願が行われた中で、特に未開墾地の多くが所在し早期に入植の進展した北海道においては、緊急の国策に政府の要請も強く、本省の裁可を待たずに札幌鉄道局の限りに仮乗降場としての設置が進められ、その数は11線区での23箇所に及んだ。都市近郊での1箇所に炭住街の拡張による運炭線上の2箇所を除けば、全てが道北道東地域に所在した。(具体的個所は追記にて記す)
この当時の国鉄は常設駅を無人駅も含めて恒久施設と考え、これら仮乗降場も将来の駅昇格を念頭に土盛の乗降場に待合所、必要とあらば本屋も備えていた。中には木材組み板張り構造の乗降場と云う個所も含まれたが、あくまで駅昇格時の本工事を前提に工期短縮の仮設備とされて少数派であった。

1949年に発足の日本国有鉄道は、鉄道総局への請願に対して1951年3月の理事会にて新たな駅設置基準を内規に定めた上で、それに適合した93駅の新設を同年7月14日付にて承認した。この内、38駅が仮乗降場からの格上げであった。ところが、道内の23箇所には上記承認とは無関係に昇格を果たした個所のあった反面、全てがそれを認められたでは無かったのである。
この際の駅設置基準は、地形・線路状態が設置に適し且つ工事の容易なことを前提に、便益者側での用地寄付や工事費の負担があり、既設駅間距離の8キロ以上の中間に位置する、一日あたりの推定乗降客数の500人以上の旅客駅を承認条件としていたものの、僻陬地についてはそれの300人以上と緩和され、さらに仮乗降場からの昇格には駅間距離の条件も緩められていた上に、鉄道以外に交通手段の無い地域には特段の考慮との項目も付されていたに関わらずであった。石北線の旧白滝・野上(新栄野)・生野・鳥ノ沢、池北線(当時に網走本線)の笹森の5箇所を数えた事例の、個々の事情は知り得ない。

国鉄の理事会が打ち出していた、この93駅の設置承認を最後に「今後当分の間は新駅設置はしない。事情止むを得ないものと云えども地方機関限りで仮乗降場も設置してはならない」との方針に反旗を翻したのが、旭川鉄道管理局の第二代局長として1954年に赴任した斉藤治平であった。管内視察から、そこに数多くを擁した僻陬地に位置する開拓集落の、地理的条件や気象状況に数キロ先の駅までの交通にも難儀する実情に鑑みて、離任時期は調べ得ていないが、1960年までに管内の12線区に実に97箇所もの仮乗降場を開設したのである。
当然に本社との軋轢を生んだのだが、彼は自らの構想を本社の云う仮乗降場とも考えていなかった形跡が在る。線区としての輸送量を重視し乗降場あるいは駅としての乗降客数の集積に拘らないのが斉藤の発想であり、進展しつつ在った気動車運行を前提に、バス停留所のごとくに乗降施設の短い距離間隔での多設を想定していたのである。本社への意見具申の中での指導により中途半端に終わったのだが、構想通りに実現していれば設置は200箇所に迫ったのではなかろうか。施設自体も乗降扉1枚分程度の乗降台を考えていたものが、これは運転側のブレーキ扱い上の要望にて気動車と同等の有効長とされた。板張りの粗末な乗降台と云う北海道に特徴的な鉄道景観は、斉藤の構想に始まったとして良い。

常盤仮乗降場は下頓別から3キロ余りの音威子府起点54K820M地点に1955年12月2日に開設されている。写真にも見える通り、広大な酪農地帯に位置し農家の散在するものの、周囲に集落の存在するではない。ここも、1950・60年代には高校生の街への下宿を不要とし、小荷物として特認された生乳の出荷にも大いに寄与して列車着発の度に賑わったものであろうが、線路際にバス停然とした施設だから、代替交通機関の発達すればいつしか忘れ去られ、廃止予定線ともなれば尚更に放置されるのみだった。

本社が斉藤の具申を認め、それに続いた他の管理局での設置も追認し、最後には前述の方針の撤回に至ったのは、それが増収をもたらした故と推定する。以後、国有鉄道の矜持としての土盛の乗降場にも拘らなくなるのだった。
(文中、斉藤治平氏の敬称は略させていただいた)

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/125sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.


前記の11線区23箇所とは以下である。

[函館本線] 大中山*
[幌内線] 住吉(幌内住吉)
[歌志内線] 文殊
[深名線] 上多度志*
[池北線] 様舞愛冠・笹森**・日ノ出*・北光社
[相生線] 布川
[石北本線] 旧白滝**・野上(新栄野)**・生野**・鳥ノ沢**・旭野(西女満別)
[羽幌線] 臼谷*
[宗谷本線] 北永山・豊清水*
[名寄本線] 中名寄*・二ノ橋*・豊野*・
[湧網線] 北見平和

全て設置時での名称。( )内が後の改称名である。
* を付した9箇所が1951年7月承認以前となる1950年11月15日付にて駅に昇格し、** の5箇所が昇格承認を得られなかった仮乗降場である。よって、1951年7月に承認を受けたのは下線を付した9箇所になる。

関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://northernrailways.blog.fc2.com/tb.php/752-6ef711b4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。