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"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

桂川仮乗降場 (函館本線) 1978

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1979年9月27日の森方の複線使用開始まで信号場として機能していた当時の桂川には、残念ながら降りていない。乗り合わせた列車の交換待ちでの停車は幾度か経験して、木張りの粗末な乗降台に赤いトタン屋根の本屋、そして汐焼けした漁師家の屋根越しの海を車窓に見ていた。
アジア太平洋戦争末期の非常陸運体制下における、北海道炭の京浜工業地帯への年間300万トン輸送に際して設けられた函館/室蘭線上18箇所の新設信号場のひとつであり、1944年9月30日の使用開始と記録される。森町鷲ノ木集落の背後を切取りで通過していた5パーミルの下りからレヴェルに至る路盤を拡幅しての設置には、1200t運炭列車の運転に当初より500メートル程の本線有効長の確保されていたものと思われる。森からは僅か2.7キロ、石倉までも3.9キロの位置だが、森方の1キロ区間に9パーミルの上り勾配が続いて、足の遅い貨物列車が石倉までの線路容量の足を引っ張っていたのだろう。停車場名は湯の崎手前で海に注ぐ小さな流れ、桂川から採られている。
近隣の本石倉や鷲ノ巣が戦後に不用施設として一旦廃止されたのに対して、ここは引続き維持されていた。開設時より便宜的客扱いの行われたものと思われ、複線化による廃止には同位置に同名の仮乗降場が設けられた。
些か余談めくが、ここを始めとした函館海線区間の旧信号場を出自とした仮乗降場の扱いは特別で、ダイヤ上にも停車場線の引かれたではないものの記載が続き、全国版時刻表にも臨時駅との表記にて永く掲載されていた。道内に多くの仮乗降場とは勿論、同様の沿革を持つ旭浜や北舟岡など室蘭線上の事例と明らかに異なった扱いの事由は未だに分からない。

森町の鷲ノ木地区には古よりアイヌの小集落の存在したらしく、1600年前後とされる松前藩の知行地としてのカヤウンペツ場所の設置には、和人の定住も記録されている。本来に蝦夷地への和人の移住は禁止されていたのだが、夏期の漁労への出稼ぎのまま越冬する者なども増え、18世紀半ばまでには一帯の中心集落となる規模だった様子である。
鷲ノ木は、ここのカツラの大木へのワシの営巣からの「鷲ノ巣」が、それの飛び去って「鷲ノ木」となったものと云われる和名である。先住民族にはユプトゥ(yu-put =温泉の河口の意)であった。湯の崎に温泉でも湧出して桂川に流れ込みでもしていたのだろうか。
函館六か場所への和人の人口増加には、1799年に蝦夷地を直轄領とした幕府もこれを追認し、1800年4月に蝦夷地との関門を亀田から山越内に移すに際して、鷲ノ木も森や尾白内を支郷に「村並み」と認め、1858年には「村」へと昇格させて鷲ノ木村とした。少なくともこの時期までは茅部地域の最大集落だったのであろう。
鷲ノ木の地名は以来、現在にまで残るのだが、函館本線の信号場がこれを名乗らなかった事由は知れない。

写真の斜路は国道5号線の新道(森バイパス)が開通するまで鷲ノ木集落を通過していた旧道から霊鷲院という浄土宗の寺院への、かつての参道の入口であり、現在に鷲ノ巣史跡公園(資料館)となっている箱館戦争当時の幕府軍の兵站地への通路だったとも思われる。当然にここへの鉄道開通より以前からのことである。傾いた古い石柱にそれの刻まれていたと記憶するが、その詳細は失念した。
ここは、1960年代に往き来した急行の車窓にも目立っていた右の汐焼けの二階屋と共に現在にも残っている。
窓枠のアルミサッシ化改装を受けたスハ45を連ねて走り去るのは104列車<ニセコ1号>である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC & LR5 on Mac.

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