"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

塩狩 (宗谷本線) 1977

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名寄盆地は上川盆地の北端とは標高300メートル程の山稜にて隔てられ、獣道のごとき先住民族の交易路は通じていたかも知れぬが、人馬の通行の、増して物資の輸送に供される通行路は存在していなかった。幕末期から開拓使の時代となっても天塩国への往来は、江別太から石狩川を遡ってシラリカ(現在の雨竜市街地付近)より雨龍越えで留萠に至り海岸線を北上する経路であった。名寄盆地は天塩川河口から遡る最奥地だったのである。
そこへの開拓入植は、1897年のケネプチ(剣淵)原野への定住を始まりに1899年にはシペツ(士別)とケネプチに兵村が設けられ、タヨロマ(多寄)、ナイオロ(名寄)、フレペト(風連)への入植も進んで、その年の2月には風連へ剣淵ほか三ヵ村の戸長役場が開かれている。
一方、1894年から始まった上川盆地北端のピオプ(比布)原野への入植も、この間に進展したのは偶然では無い。『北海道鉄道敷設法』(1986年5月14日法律第93号)第二条の予定線に「石狩國旭川ヨリ北見國宗谷ニ至ル鐵道」が規定され、1897年6月に着手されたことを背景にしていたのである。また、同じ時期には経路を同じく仮定県道天塩線の工事も始められており、この地域における交通の飛躍的な利便向上が約束されていたのだった。

これにて石狩と天塩の国境を越える峠として開削されたのが塩狩峠である。道路は1898年に通じ、鉄道は1899年11月15日に天塩側峠直下の和寒までを開業した。蘭留から和寒への13.5キロに停車場の無く、列車は無人の山中を黙々と越えていた。夜間運行の列車の車窓には灯り一つ無い漆黒の闇の続くばかりだったに違いない。
この間に行違設備を要して峠頂上近くの10パーミル勾配上に塩狩信号所の置かれたのは1916年9月5日と記録される(規程改正により1922年4月1日付にて信号場)。当初には原生林に沈むランプの信号場であり、上り乗降場の背後に建てられた官舎に移り住んだ鉄道職員と家族は深い夜に暮らしたのだった。
隣接しては1923年に自然湧出の鉱泉に湯治場の開かれ、1925年には塩狩温泉旅館が建てられた。1924年11月25日付での駅昇格は、それによる乗降客の増加に応じてのことだろう。戦後には復員軍人や外地からの引揚者の帰農促進の緊急開拓事業にて周辺にも開墾地が出現するも、集落の形成には至らなかった。付記すれば、この開墾地は1970年代初めまでに離農により放棄され、線路東側のそれは植林地に転用された。今には杉の深い森に還っている。

写真は塩狩に到着した323列車、名寄行き。
周辺に集落の在るで無く、国道からも隔絶された位置にあったこの駅は、日の没すれば太古からの闇に包まれた。構内の照明に雪明かりも期待してバルブを切ったのだが、写真は光が無ければ写らない。ランプの頃の夜の底は如何ばかりかと思う。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 Bulb@f8 Nikon L37filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

※ このカットはWebsiteのGalleryで既出の再掲です。但し、ディジタル上での編集処理をやり直しています。

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