"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

落部 (函館本線) 1996

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太古の昔から成層火山への成長と山体崩壊を繰返していたとされるその山は、約5000年と云われる永い休止期を経た1640年7月31日(旧暦6月13日)の大噴火にても山頂部の大崩落を生じ、荒々しい山容を見せていたのである。これを目にした和人は、先住民族のカヤウンペシュヌプリを知ってか知らずか、その奥に広がる閉鎖水域を古式どおりに内浦(内裏)とし、湾口のこの噴煙の火山を「山」では無く「岳」と見取って「内浦嶽」と名付けたのである。
その時代には「ヲシロナイノノポリ」との記録もあるのだが(1807年東蝦夷屏風)、これはアイヌ民族の呼び名では無く、和人が聞き覚えでそれ風に呼称したものではなかろうか。アイヌはその源流の山を河川と同名としたけれど、尾白内川のそれは西を向いている。
内浦嶽が「駒ケ岳」とされるのは、そのアイヌ民族の口碑伝説に由来との説もあるけれど、それも含めて前記の山体崩壊で生じた剣ケ峰から続く緩やかな稜線が「馬ノ背」と呼ばれるようになっての発想には違いない。1845年にこれに登頂した松浦武四郎は「東蝦夷日誌」の挿絵に「内浦駒ケ岳之図」と記し、その呼称が使われ始めていたことが知れる。おそらくは19世紀始め頃からではあるまいか。本州島内にも所在した山名の転用であったから、近代にはそれと区別して北海道駒ケ岳と呼ばれるようになった。

落部に降りるのは湾岸をかすめる鉄道に駒ケ岳を背景とするためであり、それは石倉方でも野田生方でも叶えられたのだが、後者には些か悩むところとなっていた。
周知のとおり、そこでは1960年代に造成された現在の国道5号線沿い東野の駐車場からの眺望が定番位置である。絵画的過ぎる嫌いも在るけれど、線路が第三落部トンネルで抜ける川向の段丘の張出しと駒ケ岳の重なりは最も均衡の取れ、それも頷ける。
しかしながら、1980年半ばに肝心の線路山側の一部区間に通信線柱が建植されると、画角にはそれが編成に引っ掛かることになった。複線の線路を横断する電気運転設備ともなれば諦めもつくのだが、本州からの寝台列車の重連の機関車をその柱間に無理矢理に収めにかかると、困ったことに山影とのバランスがどうにも座りの悪く、何とも中途半端で様にならないのである。駒ケ岳を背景にしてはそれの撮れない立ち位置には、機関車1台牽引だった<カートレイン>や<夢空間>列車を、何故にここで撮っておかなかったものかと悔やむ。

この画角の困難は、ここを訪れる多くの撮影者が山影の遠望の可否に関わらず、第三落部トンネル出口付近に画角を採る所以でもあろうが、それをリピートするのも悔しいので、もっと引きつけた位置で何とか通信線柱をクリアする。列車は5列車<北斗星5号>である。
駒ケ岳を記事にしておいて、それを外したカットはお詫びする他ない。機関車が1台の貨物列車とし、且つ露出を落として柱の目立たぬようにした習作カットなら 落部 (函館本線) 2011 に在る。

余談ながら、その東野の駐車場用地は1966年から行われた函館本線の線増工事に際して置かれた工事用ヤードを転用したものである。掘削土砂はインクラインでここまで巻揚げられた。

[Data] NikonF4s+AFNikkor180mm/F2.8ED 1/250@f5.6 Fuji SC-52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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