"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

千歳 (千歳線) 1984

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千歳線による千歳市街地の分断は1960年代初頭には既に市当局の関心事だったようである。当時の千歳市は、1957年の航空自衛隊第二航空団の浜松からの移駐による千歳基地開設、1962年の陸上自衛隊第七師団(当時に第七混成団)の真駒内からの東千歳駐屯地移駐などにて自衛隊関係者の転入が相次いで人口が急増、1955年に42317人に達して1958年7月1日付で市制を施行するなど、この頃より線路東側の農地が宅地へと転換されつつあったのである。
当初には東西を連絡する跨線道路橋の数本が検討されたものの、接続すべき幹線道路が線路近傍を並行しているために断念せざるを得ず、鉄道の立体交差化が望まれたのだった。しかしながら、国鉄にそのインセンティブは働かず、市当局も単独での事業遂行は困難で、1969年に運輸省と建設省間にて締結の「都市における道路と鉄道との連続立体交差化に関する協定」を待つこととなったのだった。これには、事業費の9割を主要受益者の自治体負担とした上で、そのおよそ半分の国庫補助が制度化されていた。
これを受けて、事業は北海道を主体とした都市計画事業にて動き始め、1973年に基礎調査を開始、報告を受けた建設省の1974年の新規事業採択を経て、1975年に都市計画決定されたのだった。その後には、道と国鉄間にて細部の協議が繰返され、1978年3月に工事協定書を締結して着手に至った。
興味深いのは、この際の都市計画決定区間は苗穂起点38K000Mから48K126Mまでの延長10K126Mの区間とされ、それには当時に建設線であった追分線分岐の信号場位置、即ちは千歳空港連絡駅と目されていた施設を含んでいたことである。→ 千歳空港 (千歳線) 1988

連続高架橋の建設位置は既設線直上に西側・東側併行の各案が比較検討された結果、用地確保や工事施工性に工期、工事手順などから東側が選択された。高架事業区間は起点37K710Mから43K100Mまでの4K390M、この内39K248M63から42K584M67が高架橋である。高架上への盛土を含む斜路の勾配は10パーミルとしたが、恵庭方を上った線路は地形の関係から千歳駅手前に10パーミルの下り勾配が介在して美々方は4パーミル勾配で済んでいた。これが今に千歳から南千歳を遠望出来る所以である。
設計には、同時期に進行していた東北新幹線と同じく施工基面拡輻の貯雪構造が採用され、軌道構造の寒冷地向けスラブや充填のモルタルも同線向けに開発された技術であった。

高架区間内には既存の6本に加えて都市計画道路4本の架道橋が含まれ、東西交通の円滑化と市街地一体化に寄与するものとされた。しかしながら、千歳市に委託した用地買収と支障家屋の移転が遅れ、高架橋本体工事への着工は1979年8月となった。この時点で千歳線電気運転にCTC制御施行の1980年10月実施は既定方針であり、高架線区間での設備工事とその後の訓練運転期間の確保から、同年7月の高架橋供用開始の至上命題には、通常には回避する冬期間の工事継続を余儀なくされたのである。基礎抗構築には寒冷に地表80センチ程まで凍結した地面を掘削せねばならず、掘削機械の騒音防止に場合によっては手掘も要し、またコンクリート打設には躯体全体をシートで覆ってのジェットヒータによる保温を行ったと工事誌は記録している。

斜光線を浴びて轟音とともに千歳を通過して往くのは414列車<まりも>。寝台車を連ねた編成に保線資材の収容庫が、如何にも邪魔モノではある。
この年1月末日を以ての取扱便の全廃には、機関車次位の[北東航21]はスユ15による護送便となっていた。札幌からは102列車に併結されて函館へ向かう。
高架橋と千歳新駅は1980年7月10日に供用を開始した。この後に旧駅構内に本屋の撤去されるのだが、それまで新駅への出入りは旧跨線橋を駅舎2階に延長接続して利用していた。旧線路盤は千歳市に一括して払い下げられた後に民間へと売却され、現状では跡形も無い。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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