家族で水戸から転居し小樽に、そして手稲に暮らしたのは1958年からの僅か12年間である。今や、遥かに内地の生活が永くなったのだけれど、毎年に冬ともなれば違和感を覚え続けている。札幌なら一年の三分の一を占めた白い風景の無いことにである。
積雪はソリ滑りにスキーと子供には楽しい遊び道具でもあった反面、住宅地の細道まで除雪の行き渡らない当時、低学年には踏み締め道を自分の背丈ほどの積雪に囲まれて登校せねばならなかったり、下校すれば玄関回りの雪掻きを手伝わされたりの余計モノにも違いなかったと云うに、どうにも物足りなくて落ち着けずに過ごすことになる。ここでは夏が先細りしながら緩慢に秋につながり、11月末頃の急激な気温の低下にようやく樹木が染まり始めるけれど、それの落葉してもいつまでも季節の間延びして、いつの間にか桜の咲く印象なのである。いつものように降り始め、いつものように根雪となる白い景色は時間軸のマーカーに違いなく、上京してもそれの確認に雪の道内には通い続ける動機にもなっていた。
北での暮らしは父親の転勤での偶然に過ぎないのだけれど、上野からの夜行列車には、いつも「帰郷」感を抱いて乗っていた。今の新幹線でもそれは変わらない。
以来に積雪期の渡道を欠かさない中で、北海道の雪景色は懐かしく、撮影地点への移動に列車に乗れば白い大地の車窓には何処までも乗り続けたい誘惑に駆られ、10日とか2週間の長い旅なら1日か2日はスケジューリングしていた休養日をそれに当てていた。日程は勿体無いけれど、連日の雪中行動の負荷に加えての夜行連泊には何より身体が保たなかったのである。大抵は前後をホテル泊として日中を長距離の移動に当て雪の車窓を楽しんだものだった。弁当の総菜を肴に酒を舐めながら車窓を眺め、とろとろと眠りながらも目覚めれば相変わらず白い景色の流れ去っているのは至福の汽車旅でもあった。
実は、これに味を占めてこの40年来に、ひたすら列車に乗り続けるだけの渡道を夢想し続けているのだけれど、生来の貧乏性か、限られた日程をそれに充てるに忍びなく実現していない。どうしても撮らずには居られなくなり雪中からそれを眺める側に回るのだった。そうこうしている内に、周遊券も肝心の夜行急行も過去帳入して久しい。
この冬に2回目の冬旅では9日間の日程の真ん中の1日を休養日に充てた。夜行ではなかなか下車し難い旭川での連泊として日中も食事に出るだけのつもりだったのだけれど、食料を仕入れに出向いた駅で828列車に、スチームに包まれたスハ32の組成を見つければ乗らずにはいられない。
写真の32821は、1939年に北海道仕様として新潟鉄工所にて新製された22両中の1両である。全検出場からまもないと思わる美しい車体で、撮影した自分が車体に写り込む程でだったのだが、2年後の1980年11月6日付にて用途廃止となった。14系投入にて捻出のスハ45に代替されてのことである。
[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f1.8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.
- 関連記事
-
- 桂川仮乗降場 (函館本線) 1978
- 旭川 (函館本線) 1978
- 倶知安 (函館本線) 1978