"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

姫川信号場 (函館本線) 1977

himekawa_06-Edit.jpg

姫川信号場の設置は1913年8月1日と記録される。国有化直後の1907年12月ダイヤで10回であった函館-森間の列車回数は、1912年度末でも18回を数えるのみではあったのだが、日露戦争後の経済変革により食料・資源の供給地と目された北海道と内地間の増大する物流需要に、その翌年には青函間の貨車航送開始が予定されており、それにともなう飛躍的な列車回数の増加を見据えての措置であった。
なお、開設時には当時の建設規程に従い「姫川信号所」と呼称された。

これの開設当初の姿は知り得ない。1966年に南側に隣接して国道5号線の新道が開通し、今は自動車の走行音の聞こえ来るのだが、当時には駒ケ岳裾野の原生林に隔絶した札幌本道からの小径の通ずるだけの信号場であった。ただし、その南側には開拓地の存在した様子である。
当時の道内での例に従えば、1/50勾配(=20パーミル)のこの区間には票券閉塞に加えて双信閉塞が併用されたはずである。また、翌年には全国一斉の空気ブレーキの採用と自動連結器への取替(*1)により列車単位の増強も計画されていたから、停車場有効長も大きく取られていたことだろう。近年まで原型を留めていた本屋もその際の建築と思うが、確証は持てない。

写真は1977年当時の本屋である。ここは1969年11月と云う早い時期に道内最初のCTC制御施行区間に含まれて要員が引揚げられていた。この頃、コンクリートの土台を構築して乗降場に張出した部分が旅客待合所とされていたのだが、おそらくは三面に窓を取って場内の見通しを確保したここに転轍機に信号扱梃子の置かれていたものだろう。場内監視に本屋を二階建てとした信号場は多々見かけるものの、梃子までも上げた例は珍しいとは思うが、他にそれを設置した痕跡は見当たらなかったのである。木材で塞がれた土台コンクリートの窓部からケーブルワイヤの牽き出されていたと推定する。
旧駅務室部分を覗き込むと伽藍として石炭ストーブに机の置かれただけだったから、CTCの補助制御盤は隣接して建てられた信号機器室に収められていたのだろう。
上下の乗降場は旅客扱の公告された戦後の設置とされるが、これも信号場の例に倣えば開設時より短い乗降場は存在したものと思う。通票の授器は良いとしても受器設置にはそれを要し、鉄道官舎(戦後には宿舎)に暮らした職員家族の乗降にも配給列車からの用品取り下ろしにも必需の設備ゆえである。
公式の客扱い開始に際して、客車列車の停まる下りは有効長を延長して改築し、気動車列車のみとなる上りには従来の土盛をほぼそのまま利用したのではなかろうか。
本屋の左手に見えるのが職員宿舎である。戦後に米軍の撮影した空中写真には6棟程が確認出来るのだが、この頃に残されたのは、この1棟だけだった。当然に空家である。

写り込んだ駅名標のなんら変哲の無い標準に忠実な表記は腑に落ちない。ひらがな、漢字、ローマ字表記(*2)の何処かには示されたはずの「信号場」が欠落しているのである。青函局の公告した仮乗降場を表記したものかも知れぬが、同様の施設ながら漢字表記にそれを示した仁山信号場との整合性が無かった。
.......................................................................................................................................
(*1) 道内はそれに先行して、この信号場開設直後の8月13日から17日に施工された。翌年の全国施工に備えた予行演習を兼ねたと云われている。
(*2) 通常は、シグナルステイションを示す「S.S」が付記される。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F2 1/60sec.@f8 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://northernrailways.blog.fc2.com/tb.php/732-622d593a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。