"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

大岸 (室蘭本線) 2009

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1928年9月10日の長輪線(現室蘭本線)の全通は、長万部-東輪西(現東室蘭)の短絡に留まらず、岩見沢へ最急勾配の10パーミルに抑えられた線形による定数の向上は全道の貨物輸送に一大変革をもたらす出来事だった。道内各地域は勿論のこと樺太からも内地に至る輸送能力は大幅な拡充を見たのである。

旅客列車についても函館桟橋-岩見沢間は7.2キロと僅かな短縮ではあったのだが、同日の時刻改正により根室行きを振り替えた函館桟橋-稚内間急行203・204列車が長輪線室蘭線経由にて運転された。一等寝台車・食堂車を組成した樺太連絡急行である。
噴火湾北岸の峻険な地形を断崖中腹に連続する隧道で貫いた車窓は、垣間見る風光が評判ともなったものだろうか、当時に多くの旅行者を惹き付けた様子である。
開通当初の1931年5月から6月に各地での講演のため北海道を訪れた与謝野寛・晶子夫妻は、その帰路に洞爺湖に遊んでの函館までの車窓から噴火湾の風景を、
 「有珠の峰 礼文の磯の大岩の ならぶ中にも我を見送る」 与謝野 寛
 「数しらね 虹となりても掛かるなり 羊蹄山の六月の雪」 与謝野晶子
と詠んでいる。
また、翌1932年8月には斎藤茂吉が、弟高橋四郎兵衛と同道しての中川村志文内(現中川町共和)の志文内診療所で拓殖医を勤めていた次兄守谷富太郎を訪ねる旅の途上、礼文華付近の車窓に、
 「白浪のとどろく磯にひとりしてメノコ居たるを見おろして過ぐ」
の歌を残した。

その噴火湾北岸に位置する豊浦町は、これらが詠まれた車窓風景とされる礼文華海岸の、道道608号大岸礼文停車場線の岩見隧道出口付近に、それぞれの歌碑を建立し周囲の2769平方メートルを「豊浦町文学碑公園」として整備した。石碑には1987年7月18日建立と記されるが、東屋1棟に便所1棟、駐車場を含む公園の開園は文書上には9月18日となっている。
室蘭線旧線の廃トンネルを転用したチャストンネルは未成ながら、この位置の道道の新道切替に合わせてのことと記憶する。行政とすればその機会に何かしらの観光施設を希求したものだろうが、彼らがこの海岸に立った訳でも無く、静かな海岸の趣を打ち壊すようなそれは「柄をすげる」感が強い。
そこには、北海道に縁の深い小説家随筆家である伊藤整が、北大で教鞭を取っていた1946年に初めて室蘭本線に乗った体験を綴った随筆「千歳線風景」の一節から、
 「五月の初め頃私は噴火湾の沿岸をとおって函館の方から札幌への汽車に乗った
 初めて乗るこの長輪線と言う海沿ひの汽車の風景が、風景そのものの楽しさで眼に映った」
と刻んだ文学碑も建てられているのだが、どう善意に解釈してもこじつけは否めない。
ここに公園の存在意義は希薄であり、無くもがなの施設であろう。「何も無い」ことが最大の観光要素であることが日本人にはなかなかに理解されないのだ。

写真はチャス岬から遠望した8002列車。類似画角の既出はお詫びする。
余談だが、個人的には1931年には既に室蘭本線に編入されて消滅した長輪線の線名を、戦後にまで北海道人の伊藤整が用いていたことが興味深い。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/125sec@f5.6+1/2 C-PL+SC40 filter Ektachrome Professional E100G [ISO160 /0.5 EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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