"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

礼文-大岸 (室蘭本線) 1990

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山塊が海岸線に落込む地形の続く噴火湾北岸の交通路は、1799年に幕府が箱館からニムオロ(根室)、海路キナシリ(国後)までに至る軍事通行路の一部として松前藩に開削を命じたことに始まる。峻険な地形には先住民族も海岸線に点在したであろう小集落間の移動には小舟を用いていたのである。
工事は難航し翌1800年には幕府が直轄工事に乗り出すものの完成に至らず、放置の後、この地域の警護を幕府に命ぜられた津軽藩の手により1803年から再開され、三年の歳月を要してようやく1806年に幅三尺の通行路が通じたのだった。1メートル程の道幅は静狩・礼文華の峠に加えて弁辺から虻田へと続いた厳しい地形に人馬の通行を最低限に保証するものだったろう。
しかしながら、その余りの険しさと、それゆえの高額な通行料には沿岸の交通は引続き海路が選択され、せっかくの陸路は荒廃の進み、開拓使の時代となって1872年から整備の進められた札幌本道も森-室蘭間を海上連絡となれば、これの顧みられるのは1890年を待たねばならなかった。
1886年に成立の北海道庁は、天候に左右されない海路に替わる室蘭への重要交通路との認識の下に、この古の交通路の馬車道への拡輻・改修を開始、一部区間には新道を開削する難工事の末の1894年に長万部から室蘭に至るそれを完成させたのだった。これがその後の部分的な改修を繰返しながら戦前から戦後の自動車交通に対しても道南の往来を支えた道路の原型である。

意外なことに、この険しい交通路に対する抜本的改良の最初の事例が礼文華川の谷と小鉾岸川の谷を山越えで結んでいた区間であり、ここに海岸線を迂回する新道を開削したのである。既に1928年に長輪線(現室蘭本線)が通過していたそこへの工事はアジア太平洋戦争の戦時下に着工され1944年に完成した。九十九折の難所であった礼文華山道など1960年代の改良工事に関わる資料は多いのだけれど、この新道については探し得ていない。
戦時下での工事は軍需上に迫られてとも思えるが、東に礼文華山道、西に弁辺山道を残しての此処だけの改良も腑に落ちない。工事の比較的容易な区間から着工したと云うことだろうか。確かに、断崖下に開削する延長の短いことに加えて、長輪線建設時の工事用道路の一部転用が可能ゆえのことと推定するも確証はない。「長輪線建設概要」(鉄道省北海道建設事務所 1928年)に所載の写真には完成した線路に併行する工事用と思われる道路が現行位置にて写り込んでいるのが見て取れ、それは少なくとも(鉄道の)岩見隧道入口抗口までは通じていたはずである。但し、途中に二箇所の岬の通過には、短いながらも(道路の)岩見隧道と達古武隧道が掘削された。
この道路は1953年に一級国道37号線を構成する一部に指定され、大岸トンネルで芝伏川の谷へと出る新々道の供用にともない1968年3月30日付にて路線認定の道道608号線の一部と変転した。

秋風に耳を澄ませば波音が繰返すだけの噴火湾岸。複線新線の礼文浜トンネルから眼下の新達古武トンネルへと5列車<北斗星5号>が駆け抜ける。
画角中央の廃隧道が1928年9月10日に開通の旧線茶津隧道、さらに海側がこの当時に現役だった道道608号線の岩見隧道である。この静かな海辺の風景も1996年から97年の室蘭線旧線茶津隧道と達古武隧道を転用した道道新道の建設にて失われてしまった。
国道37号線に対しても道道としても旧道となり、打ち捨てられた隧道は以後も閉鎖されながら現存する。それに巻かれたコンクリート壁には実見で1970年との刻印があり、道に移管後の改修によるものと知れる。隧道半ばには素堀のままの個所も残されていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 FujiSC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.
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