"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

石倉 (函館本線) 1989

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石倉停車場周辺の集落はそれを東端に置いて海岸沿いに西側へ1キロばかりの間に民家が散在する。一連の集落ではあるけれど、茂無部川を境に駅の在る東側が茅部郡森町、西側が二海郡八雲町(*1)に属する行政の狭間でもある。茂無部川を境界とする歴史は古く、松前藩により設置の野田追場所と茅部場所との境を1695年に pon-nay(ポンナイ=小さな川の意)と呼ばれたこれと定めて以来のことである。
現在には落部栄浜漁港の構築により失われているが、ここは海岸段丘から岬状に砂浜の押し出た地形となっていて、イナウサキと呼ばれ、かつてには稲穂岬の字が当てられていた。 その名のとおり先住民族が inaw(イナウ=木幣)を神に捧げた hasinaw-us-i(ハシナウシ=幣場)であった。この岬を回り込んだ段丘下には、おそらくは先住民の小集落(コタン)に始まったと思われる集落が開かれ、幕末期(19世紀半ば)の松浦武四郎らの記述(戊午東西蝦夷山川地理取調日誌)によれば、20軒ばかりの全てが漁家であり和人とアイヌ民族が混住していたと云う。地名をモナシベ(茂無部)と云い、現在の栄浜の一帯にあたる。町村界を越えて森町側への拡張はそこに鉄道の停車場の開かれてのことである。

北海道鉄道(初代)による函館小樽間鉄道の第三工区であった森から熱郛までの、1903年11月3日の開通に際して設けられたのが石倉停車場であった。当初計画では落部への設置を予定していたものが当地住民の忌避により断念され、森から野田追(現野田生)までの13哩余りに是が非でも列車行違い設備を要したものか、その代替に置かれた。当時より集落を成していた茂無部中心部への設置の叶わなかったのは、ここより先、海岸線に迫る段丘崖の開削を避け段丘面上を経路とした線形ゆえである。
おそらく当初の計画では、現在の第五石倉トンネル出口付近から緩い勾配で段丘上への到達する設計であったろうが、予定外の停車場を可能な限り集落に接近させる変更の結果、この鉄道での最急勾配にあたる1/50(=20パーミル)が介在することとなった。これは国有化後の1913年10月に1/66(≒15.2パーミル)へと緩和する大規模な改良工事が行われたが補機を要する難所には変わりなかった。
行政区画が異なっても隣接集落名を名乗る事例の在る中で(*2)、森町域に属したこの停車場に落部村茂無部の名が与えられなかった事由は分からない。石倉は「駅名の起源」(札幌鉄道局 1938年)によれば、付近に石地の多かったことからの付名と在り、地名に駅名の先行したものと知れる。現在にはかつてにヤウルクテキナイと呼ばれた(らしい)南側地域までが石倉町とされる。一方で茂無部の名は川の他には茂無部簡易郵便局に残るのみである。
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(*1) 1957年度までは茅部郡落部村
(*2) 当の北海道鉄道でも当時の市ノ渡村に置かれた停車場に隣接の本郷村の本郷が与えられた。現在の渡島大野である。

写真は、かつてのイナウサキを背景に噴火湾を巡る3065列車。
背景が茂無部集落の西端である。画角右に段丘崖を15.2パーミルで上っていた旧線路盤の痕跡が微かに判別出来る。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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