"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

石倉 (函館本線) 1980

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茂無部(もなしべ)川は、それを先住民族が pon-nayと呼んだとおりの細い水流である。にもかかわらず、これは茅部郡森町と二海郡八雲町との町界を為し、そこに所在する一連の集落の行政区画を分け隔てている。この水流を以て境界とするのは300年あまりを遡り、それは、松前藩が藩士への知行に替えて先住民との交易権占有を認めた「場所」の区分界としてであった。
「場所」の設置時期は明確ではないが1600年頃からと云われており、噴火湾西岸地域にはノタヲイ(野田追)場所とカヤベ(茅部)場所、少し遅れてユウラッフ(遊楽部)場所が置かれている。けれど、当初にその範囲が藩により明確にされなかったことから隣接場所との境界争いを度々に生じていたらしく、1791年と後年の記録ながら「東蝦夷道中記」には、ノタヲイ場所とカヤベ場所の境界争いが1695年に出された裁定にて、pon-nayこと現在の茂無部川に定められたと記されている。
同様の水流なら、近隣に現在の本内川や三次郎川、石倉川など幾つも存在した中での選定は、これが海岸段丘から岬状に砂浜の押し出た地形、当時に和人が稲穂岬と呼んだ位置に河口を持っていたゆえと思われる。つまりは同じような水流の存在には特定の容易だったからなのだろう。ちなみにノタヲイ場所北側に追加されたユウラッフ場所との境界はヤムクシナイ(山越内)南方の境川なのだが、ここに目立つランドマークは無かった。

さて、先の和人による稲穂岬の稲穂とは、道内に多数の事例のあるとおり先住民族のinaw(木幣)に対する当字であり、そこは彼らが神にinawを捧げた hasinaw-us-i(幣場)であった。そして、岬を回り込んだ段丘下にはコタンが所在して、これも pon-nayのコタンと呼ばれていたようである。
この集落に対する和人によるモナシベの呼称の起源は知り得なかった。pon-nayからの転訛と仮定しても、モナシ「ベ」が不明である。pon-nay-petでは「川」が重なってしまう。o-tes-petからのオトシベ(乙志部=現落部)との混用だろうか。享保年間(1716-1735)の著作とされる「蝦夷商賈聞書」にオトシ部、モナシ部の表記で記述されており、「場所」が請負制で運営されていた時代の1786年の「蝦夷草紙別録」に箱館の商人江口屋伊右衛門の請負としてモナシベ場所の名も記録されている。前述の「東蝦夷道中記」には「ノタオイ場所モナシベ運上屋あり」とノタヲイに在った運上屋がモナシベに移転したらしき記録もなされる。
18世紀後半には「場所」は先住民との交易区域から請負商人による直接の事業区域へと性格を変えつつあり、噴火湾西岸地域でも、それまで交易や漁労の度に出向いていた和人の定住化が1764年の津軽からオトシベへと移り住んだ漁家3戸を最初の事例として進行すれば、運上屋を中心に番人が常住するようになり、大規模化した漁場には番屋が開設されて先住民は労働力としての和人への隷属構造が形成されて往くのである。運上屋のモナシベ移転も、そこが中心漁場となったことを示し、従来からの住民に加えて近隣のコタンからも使役のために集められもしたであろう。19世紀半ばの松浦武四郎らの記述によれば、20軒ばかりの全てが漁家であり和人とアイヌ民族が混住していたと云う。とは云え、そこに移住した和人たちもまた幕府による経済構造の下層に位置したに違いなく、先住民とどのように共存したものか興味深い。

石倉から落部へのほぼ中間地点、湾岸のR=600曲線を旋回して往くのは104列車<ニセコ1号>。
無煙化されてしまえば、スロ62の組成を除き外観上に普通列車と大差なく、この時期に熱心に撮った記憶は無い。本来に機関車次位には、[北東航21]の隅田川区オユ10の姿が在るはずだが、遅延などの事由にて前日の418列車からの継送の出来なかったものか、護送便である[札航1]の札幌区スユ13だけが従っていた。
段丘斜面を路盤まで続くのは枕木廃材による保線用の通路。使われなくなった今もクマザサの薮に埋もれているはずである。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f5.6 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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