"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

長万部 (室蘭本線) 1999

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文字を持たなかったアイヌ民族の居住や生活の本来の様子を知ることは困難である。それが記録されるのは和人や大航海途上の欧州人と接触する17世紀初頭以降のことであり、しかもまとまった記述の多くは和人に支配され、その使役を受けるようになった時代に集中する。それらからは和人の支配に、その経済活動に組み入れられ、激変した彼らの生活を読み取ることになる。

研究者によれば、少ない接触初期の記録から、本来に先住民族の居住地は内陸は勿論のこと沿岸においても、それに注ぐ河川の流域だったとされる。水流沿いに数戸ずつの小集落(コタン)が形成され、それらをまとめて村が成立していた。それは河口から鮭鱒の遡上限界に至る間であり、それより上流には見られない。これは沿岸民と云えど、彼らが海漁よりも保存食ともなる鮭鱒を重視し依存していたことを意味する。
ところが、和人との接触の進んだ幕末期、19世紀前半ともなると多数の海岸居住が記録されている。全ての川筋を遡って調べたのではないにしても、和人による交易管理区域たる「場所」への漁場開設には多くの漁労労働力が必要とされ、それの先住民に求められた様子が伺える。当初には何かしらの報酬による動員に自ら進んでの移住もあったろうが、次第にそれが使役となるに及んで、川筋の集落を一括した集団強制移転も行われた結果である。見聞録の類いの報告には、川筋に多くのコタン跡の見られたとの記録も残る。
幕府が東蝦夷地を直轄領とし山越内に関門を設けた頃、1806年のユウラッフ場所を改めたヤムクシナイ(山越内)場所、それは現在の落部付近から静狩付近までを含むのだが、その沿岸にはコタンが点在し、居住するアイヌ民族は総じて105戸に520人と記録されている。この時期、10戸以上で集落を成していたヤムクシナイにユウラッフやクンヌイ、ヲシャマンベはいずれも和人による何らかの施設所在地であったことは、その意図の働いた結果と見て取れよう。

ヲシャマンベについて見てみれば、長万部川とその支流域にはもともとにコタンの発達し、黒松内低地の低い分水嶺には黒松内川流域コタンとの交易路も開かれていた。これら川筋を日本海側のセタナイ場所との往き来に利用したのは和人も同様で、交通の要所となったヲシャマンベには1773年には番屋が設置された。1800年代初頭には拠点化も進み、ここへ労働力としての先住民の集積化のなされたのであろう。上記520人中20戸87人がここにコタンを形成していた。時代を下ればさらに進んで1856年の記録には50戸201人とある。狩猟場の配分など環境負担から小集落に分散居住していたアイヌ民族にしてみれば、それは大都市であったろう。

=参考文献=
江戸時代後期における東蝦夷地のアイヌ集落 : 小林和夫(北海道大学人文科学論集) 1986年

起点2キロから3キロへの反向曲線区間では、日出時刻と方位を絞った撮影をしていたとは、前に 長万部 (室蘭本線) 2003 で書いた。けれど、長万部に宿を取りながら翌早朝の国縫や中丿沢へのタクシー確保が不首尾だった際の代替位置にもしていたから(→ 国縫 (函館本線) 1998)、立つ機会は度々でもあった。
茜の朝を北上するのは設定間もない頃の8009列車<カシオペア>。
これは通過時刻の太陽中心高度が9度から8度で推移する9月下旬である。方位は列車進行方向と20度前後の角度を成して、客車の深い丸屋根に反射する。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f4 NON filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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