"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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富良野 (根室本線) 1975

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後志・石狩・空知管内の21事業者の戦時統合により発足した北海道中央バス(当時には北海道中央乗合自動車)は、その営業域に含まれた道央の基幹交通軸での都市間輸送に熱心であり、1962年4月15日には札幌-旭川間と同芦別間に直通特急便の運行を開始していた。
第一期北海道総合開発計画の進展にともなう道央地域の活発な経済活動を背景とした旅客流動の増大に、国鉄が気動車による都市間準急列車網(ビジネス準急と呼ばれた)の整備を進めていた時期であり、多分にそれを意識してのことだろう。
上芦別への運行は、芦別・赤平地域が人口13万人余りを擁する炭都であった故である。国鉄準急の2時間の所要時分に対して3時間を要したけれど、日中に30から40分毎の運行頻度と低廉な運賃に需要を確保したのである。これの都市間高速バスへの再編と富良野への延長は1984年9月1日のことで、1981年10月の石勝線開業にともなう富良野経由優等列車の激減以降に、国鉄が積極姿勢を採らぬのを見極めての施策であろう。前年11月9日の北海道縦貫自動車道の札幌ICと岩見沢IC間の供用開始も背景にしていた。当初に朝方と夕刻の2往復は次第に利用を伸ばして増便を重ね、87年発足の北海道旅客鉄道が一時本線急行に併結の直通列車(根室線内快速)を復活して対抗した時期もあったものの、バスのフリークエンシィに敵うはずも無く鉄道側の完全撤退を呼び込むことになった。1990年の富良野・芦別・赤平を合わせた沿線人口の7万人余りは、最早鉄道に新たな投資を呼び込むインセンティヴとはなり得なかったのである。現在に富良野連絡はバスが独占する。

幹線駅の地位を失った富良野は往時に比すれば一回りも二回りも小さくなった。シーズンに観光列車で暫し賑わうものの、それも近年には縮小傾向に在る。同じ境遇の倶知安と異なり貨物(コンテナ)扱い施設の維持されたのが救いかも知れないが、方や将来の新幹線駅ではある。
幹線の主要駅らしく乗降場の大半を覆った木造上屋は、多雪に対応してその重みを負担する腕木が各柱に設けられていた。それの連続する様は鬱陶しく、重苦しくもあったけれど、多くのスキー客の乗降したこの駅には相応しい景観にも思えた。
但し、重厚な趣の木造本屋は1974年12月20日に現在のRC構造に建替えられて、この上屋とは如何にもアンバランスではあった。

1番線ホームの跨線橋下に到着したのは442D、落合からの札幌行き。この間を5時間を費やして走っていた。ここで上下<おおぞら>を退避して30分ばかりを停車する。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 Bulb@f8 NONFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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