"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

[番外編 4] 青函連絡船 1976

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青函連絡船を続ける。

1964年以降、続々と就航した近代化船と称される客載車両渡船は、1954年の15号台風‘マリー’による5隻の連絡船の沈没ないし転覆という青函航路史上最大の海難事故を教訓として建造され、防水隔壁の強化、舷側の二重構造の採用や船尾防水扉の設置、船体幅の拡幅による復元性の向上などをはじめとした多くの技術が投入されていた。
これらにより、荒天時の航行性能も向上し欠航率の低下にも寄与していたであろうが、海峡の時化にて欠航の判断を下す際に、ある船長をして「船はもつが私がもたない。本船テケミ」と言わしめたというエピソードも伝わる。
テケミとは、『天候険悪出航見合わせ』を意味する鉄道電報の略号である。

一度、船室窓に叩き付ける波涛が遊歩甲板を越えるにまで達し、デッキ扉は鎖にて閉鎖、食堂も売店もシャワー室も営業休止、船内放送では自席を立たないことと荷物を全て床に降ろすよう指示される程の荒天に乗り合わせたことがある。下船後に知るのだが、この日はこの便を最後に全便がテケミした程のシケではあった。
実際大きな揺れで、座っていると身体が大きく持ち上げられると思う間もなく、宙に浮くように急激に落とし込められ、その振幅は数メートルにも感じられたが、主機のエンジン音はいつものように淡々と響き、難航するでなく定刻に青森に着岸した。
確かに、船はもったのであるが、振幅を身体が記憶してしまい、接続の急行列車に乗り込んでからも目を閉じると揺れる感覚に襲われ寝付けずに困った。

前回、客船伝統の等級差と書いたけれど、船腹上部の遊歩甲板の全てを占めていた特別船室には、専用のロビーと明らかに普通船室のそれとはグレードの異なる調度の専用売店が開かれていたが、1978年にこれらは撤去され、新たに「サロン海峡」なる喫茶室が設置された。しかし、残念ながら乗船の多かった深夜便では営業休止につきそれほど利用する機会はなかった。
たまに昼便に乗船すれば、むしろ船楼甲板にあった食堂の窓際席、海面を間近に見るここでのビールを楽しみにしていたものだ。

特筆すべきは松前丸の船内装飾である。室内カーテンや壁面、照明器具などに松前藩の紋である『丸に武田菱』をモチーフにしたデザインが施され、特別船室などオレンジ色とベージュ色の配色とも相まって落ち着いた空間を創り出していた。とても好きな船だったのだが、なかなかに巡り合えない船でもあった。
しかも津軽丸ととも1982年には終航を迎えてしまった。これは、他の5船と補機関係の搭載機器が異なった故と言われているが、これを公式に記録した文書はない。通達は18年の法定耐用年数への到達を事由とするのみである。

さて、連絡船は函館のものと言う感覚が強い。それは所管が1913年に鉄道院北海道鉄道管理局函館運輸事務所に移管されて以来、国鉄の青函船舶鉄道管理局を経て、1988年の終航時の北海道旅客鉄道函館支社に至るまでの歴史に起因するのかも知れない。しかし航路開設時から鉄道院の発足までの管轄部署は東京そして青森に所在したのである。
それは送り出す側に存在したこと、すなわち、この航路は北海道への移民船として開設されたことを忘れてはならない。

写真は、基坂からの函館市電と函館港。出航して行く連絡船は、当時のメモに「緑の船体」とあるゆえ、大雪丸である。
数時間粘ったけれど、連絡船の位置と市電の通過、それに前景の自動車往来のタイミングが合わず満足のゆくカットは撮れず仕舞だった。
春浅い時季のせいか、観光客の姿は見えない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320)


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