"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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糠平 (士幌線) 1982

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先住民族の意志を何一つ諮ることなくアイヌモシリを植民地とした薩長新政権は、1869年に拓殖を管轄する中央官庁たる開拓使を置く。その本庁が1873年に札幌へと造営されれば、開拓のインフラ施設の整備、即ち奥地への道路開削と各地域への開拓拠点の設置が喫緊の課題となり、これに使役されたのが1881年の樺戸以来、空知、釧路、網走へと置かれた集治監の収容者(囚人)達であった。
道内にこれだけの集治監の設置は、当初には矯正労働として農地開墾に従事させ、放免後の道内定住化を意図してのことだったが、1885年に政府より北海道三県巡視に派遣された太政官大書記官-金子堅太郎が翌年に提出した復命書を切っ掛けに変質したのだった。少し長くなるけれど、それの当該部分を再録する。

「彼等ハ因ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其苦役ニ堪エズ斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨状ト異ナリ、又今日ノ如ク重罪犯人多クシテ徒ラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテ是等必要ノ工事ニ服従セシメ、若シ之ニ堪エス斃レ死シテ其ノ人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告クル今日ニ於テ、万已ムヲ得サル政略ナリ。又尋常工夫ヲ使役スルト、囚徒ヲ使役スルト、其賃銭ノ比較ヲ挙レバ、北海道ニ於イテ尋常ノ工夫ハ、概シテ一日ノ賃銭四十銭ヨリ下ラス。囚徒ハ僅カニ一日金十八銭ノ賃銭ヲ得ルモノナリ。然ラバ、則チ囚徒ヲ使役スルトキハ、此開築費用中工夫ノ賃銭ニ於テ、過半数以上ノ減額ヲ見ルナラン。是レ実ニ一挙両全ノ策ト云フヘキナリ。現時ノ如ク十年以上ノ大罪人ヲ北海道ノ辺境ニ移シ、房屋飲食衣服等一ヲ之ヲ内地ヨリ輸入シテ、非常ノ金額ヲ費シ、其使役ノ方法ニ至ツテハ軽罪犯ニ異ナラス之ヲ優待シ、悔悟ノ日ヲ待テ之ヲ土着セシメントスルモノハ、重罪犯ヲ懲戒スルノ効ナキノモナラス、又政府ノ得策ニアラサルナリ。宜シク此等ノ囚徒ヲ駆テ、尋常工夫ノ堪ユル能ハサル困難ノ衝ニ当ラシムヘキモノトス。」

民衆による革命ではなく、単に武家社会の封建制の看板を差替えたに過ぎなかった新政府の体質を如実に示す物言いである。当時の内務卿伊藤博文が採用したこの提案は、その後のタコ部屋労働を誘発する起点となったばかりか、現在に至るまで保守支配層に内在する階級是認の反動的体質そのものでもある。ここに使役された囚人達の大半は、佐賀の乱や新風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南の役などで新政府に対峙した政治犯とされた人々であり、決して犯罪者ではなかったのである。

1895年に開かれた北海道集治監十勝分監も、その設置そのものが十勝開拓への収容者の使役を目的としており、早速に拠点とされた帯広市街造営のための森林伐採に原生林の広がるばかりだった音更川上流のユウンナイと呼ばれた一帯へと送込まれている。当時には川筋を遡る他に道は無く、現地に越冬しながら伐採を進め、これを夏期に筏に組んで流下したと云う。そして、1918年の士幌村からユウンナイに向けての道路開削もまた彼らの使役により為されたのだった。当時に音更山道と呼ばれた後の糠平街道、現在の国道273号線にあたる。ここにも「囚人道路」の存在は忘れてはならない。

写真は強い西日に付替新線の不二川橋梁を渡る728D列車。
福島県相馬から1907年に本別村活込入植していた島隆美による原生林中への源泉湧出の発見は、その人馬交通路の開かれてこそである。島は1924年に湯殿山と名付けたそこに小屋掛けの湯坪を設け、糠平温泉の始まりとされる。
ユウンナイに達した道路からその位置までの通路は島が自らの手で開いたと云うが、その四半世紀後にダム建設に伴う付替で道路も鉄道もそこへ直接に達するとは露にも思わなかったことだろう。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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