"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

北浜 (釧網本線) 1968

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現在に釧網本線を構成する線路は、1921年4月1日付にて鉄道省北海道建設事務所の所管となり、線路設計に着手されている(1921年鉄道省告示第39号)。
これの鐵道院による調査・計画段階にて北見国側の経路は上札鶴(現緑)から小清水経由であり、そこから網走までは古樋(現浜小清水)にてオホーツク岸に達して西進する海岸線としながらも、稲富を経由して呼人で網走線に接続とする内陸線も比較線として保持していたことは、以前の記事 北浜 (釧網本線) 1971 で述べた。
それは海岸線の網走から鱒浦の間が、網走川河口近く右岸に終端駅として位置した当時の網走からの分岐に市街地南側の迂回線形となり、ここの段丘に延長527メートルの隧道を要し(現網走トンネル)、鱒浦までの段丘崖下の経路にも84.5メートルの隧道(於将府隧道/現鱒浦トンネル)に加えて、多くの法面防護工と護岸工を要するにかかわらず、崩壊性の地質には難工事が予想されたのに対して、内陸線は東藻琴付近に500メートルの、中園付近に800メートルの隧道掘削が想定されたものの、地質は良好で施工に難は無いとされていたからである。
しかしながら、これも以前に記したとおりに、斜里村に大規模農場を所有していた三井財閥の政治力により、この線路を斜里経由とする『北海道鉄道敷設法』の改正が1919年に為されて、内陸線案は放棄されたのだった。

線路選定を終えた網走-斜里間は、網走線の工事線名にて1922年12月に網走-北浜間を第一工区、斜里までを第二工区として着工された。「釧網線建設概要」(鉄道省:1931年9月)には、隧道を含んだ第一工区の工事は難行したと読める。泥岩の網走隧道の1メートル当り建設単価の709円、砂岩の於将府隧道の809円は、後の釧北隧道の290円を遥かに上回り、この第一工区の1メートルあたり竣工単価(建設費)の82円92銭は、大規模な地盤改良を要した釧路川流域泥炭地帯通過の細岡-塘路間(釧路第二工区)の50円82銭を越えて、この路線の各工区中最も高額でもあった。
意外にも思えるが、釧網線工事の中で資材も人手も要した難所は網走-鱒浦間だったのである。そればかりか、開通後にも段丘崖法面の崩落や浪害を受ける災害区間ともなってしまった。資本の横暴が国費を浪費したばかりでなく後々まで禍根を残した悪例の見本として良かろう。

定番の北浜橋梁を往くのは混合633列車。
牽いているのは、切欠きデフレクタから釧路機関区のC58385と知れる。その後藤工場式G2型デフレクタは後にC5833に譲られたとはご承知のことと思う。
この濤沸川橋梁の他にも止別川や斜里川の河川をはじめ原野から流れ込む小水流への架橋が多かったけれど、ほぼ平坦地への敷設にて土工量の少なかった第二工区の竣工単価は16円29銭であった。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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