"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

花石 (瀬棚線) 1973

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以下を、茶屋川 (瀬棚線) 1971 の記事の補遺とする。

1910年に制定の『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)とは、それに準拠して鉄道が建設されると云うのに僅か8条の条文しか持たなかった。その法定の意図は、1906年に鉄道国有法を制定して国家骨格の幹線鉄道を買収した結果、新線建設への資金余力を失った政府に替えて民間資本による必要とされる地域交通線の建設促進を図るものであった。それらが輸送量も少なく、簡易な規格にて済むものと考え、零細資本での参入に配慮して大幅に規制や規格を緩和したゆえの8条なのである。しかも、開業後5年間に限り建設費に対して年間5パーセントの収益を補償する『軽便鉄道補助法』(1911年3月27日法律第17号)も定められ、さらには従来の私設鉄道法からの転換も認められたので、以後に所謂軽便鉄道ブームが続いた。この時代に開業した私設鉄道は実に多い。
ところが、この法律自体が成立からそれを織込み済みとの推測も成り立つのだが、すぐに政治的に利用されることになる。時の帝国議会は、民間資本を想定していた当法の解釈を拡大し「高規格を必要としない路線で、地元に起業者がいないか将来的に有望な路線」に限り、当法に準拠した簡易規格の国有鉄道線を帝国議会の予算承認のみで建設可能としたのである。これにて時の政権党立憲政友会は勿論、対抗した同志会(後の憲政会に民政党)にしても自らの意になる地盤獲得手段を手に入れ、以降に国有軽便線の多くが政治路線と化すこととなった。現在まで尾を引く地方交通線問題の全てはこれに端を発したとして良い。

前記の記事にも書いたように、軽便鉄道法の下に計画の進められ、第一次世界大戦後の戦後恐慌期の1920年、原敬政友会内閣が総選挙で圧勝した直後に開かれた第四十三臨時帝国議会で建設の協賛を得た瀬棚線は政治路線の典型であった。そればかりか政友会代議士加藤政之助の個人利権路線ですらあった。彼の弟が沿線の大地主だったからである。
部分開業を経ての1932年11月1日の全通は沿線住民には福音に違いなかったが、20年の運営を経て、発足直後の日本国有鉄道が1953年11月に通達した「線区別経営改善計画」にて既に経営の困難な非採算線区とされ、北海道支社は1958年10月1日付でこれを青函船舶鉄道管理局駐在運輸長の管轄から分離、局長直属の瀬棚線管理長による運営として経営改善に乗り出さざるを得なかった。
ちなみに、この時期に道内で管理所や管理長、運輸区方式にて運営の分離されたのは、胆振線・日高/富内線・興浜北線・同南線・渚滑線・相生線・士幌線・広尾線・根北線・標津線があった。
国鉄による1959年の資料で、管理長制度による瀬棚線の同年上期の経営成績は前年同期に対し、3駅の要員無配置化(=棒線化)、1駅の業務委託化、夜間当直の廃止等による17人の要員減をともなった機動的運営により、営業係数を226から180に改善し、赤字額は7,622千円を圧縮する31,347千円とある。貨幣価値は現在と異なるが、大きな改善効果を挙げたには違いない。けれど、この線区別経営の制度は主には合理化による経費の圧縮を目的としていたから、それの往き着いてしまえばそれ以上の改善は見込めないものであった。
1966年の待望の函館直通急行の設定は、青函局に年間25,000千円の増収をもたらしたとは云うが、それは瀬棚線内旅客ばかりではなく長万部、黒松内方面を含んでのことであり、経営改善の端緒とはならなかった。

第二渡島利別川橋梁上の列車は1992列車。日中の上りはこれしか撮れなかったのだが、1993列車とは花石で行違うダイヤには場所の移動は叶わない。

[Data] NikonF+P-Auto Nikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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