"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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塘路 (釧網本線) 1983

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塘路に通い始めた1970年代の半ば、その殺風景な駅前に公衆電話ボックスが設置されていた。都市部では四方がガラス張り、中折れ扉の組み立て式ボックスに取替が進んでいたけれど、そこに在ったのは旧来からの「丹頂型」と呼ばれたクリーム色に塗装された鋼製、窓付であった。赤く塗られていた屋根部を丹頂鶴に擬えてその名がある。
そこには勿論、赤い公衆電話が収められていたのだが、時折にこれが使えないことがあった。受話器を取り上げ硬貨を投入しても落下してしまうのである。故障と疑い、まだ要員配置の在った駅に尋ねると、時間をおけば使えるようになるとのことだった。都市部にばかり暮らして知ることのなかったのだけれど、それは団体加入電話の端末だったのである。

1890年の東京・横浜間での開通以来に電話通信網は都市部から整備の進められ、一般加入電話は戦前期を通じて役所や企業、商店などを中心に回線を増やすのだが、とても一般家庭にまで普及するものではなかった。まして、北海道のルーラル地域ともなれば、1910年代以降に「特設電話制度」により回線整備の図られたものの、加入者組合が組織され資金の準備もなされた上に工事の可能な一部地域に限られた。戦後にも1950年代まで、開拓地のごとき農山村や漁村は広大な無電話地域として取り残されたのである。
全国の電話通信網を受け継いで発足した日本電信電話公社は、1953年度を初年度とする「電信電話施設拡充・改良五か年計画」を策定し、ここでは僻陬地無電話地区救済のため「農村公衆電話」の制度を設けてその設置促進を図り、1958年度からの第二次五か年計画では1953年の『公衆電気通信法』を改正して(1958年5月6日法律第137号)「地域団体加入電話」の制度を創設、住宅への普及と電話空白域の解消に努めた。
この制度は、電電公社が整備地域内に加入組合側から場所の提供を受けて小型の手動交換機を設置し、さらには1本の加入者線を数人で共用する方式にて初期投資を低く抑えることにより、施設設置負担金を低廉として少人数の加入者組合(団体)での加入を促進したのである。ただし、手動交換の交換手雇用は組合の負担とされていた。
なお、これは当時に農林水産省が主導した「農山漁村特別助成事業」にて導入の進みつつ在った有線放送施設利用の地域内電話に、電電公社が危機感を覚えたためとも云われている。
1964年には、それをさらに小規模化、そして交換手を不要とした「農村集団自動電話」のサーヴィスが始められ(日本電信電話公社公示第40号)、それまでの電話加入区域を外れた地域の10戸程度からの加入も可能とされた。これにより、1970年代半ば以降に無電話地域はほぼ解消に向かったのだが、これも加入者線は共用であった。

写真は、件の「塘路の崖」(→ 塘路 (釧網本線) 1982)からの混合646列車の網走行き。
塘路駅前の公衆電話が、どの制度で何時に導入されたものかは知り得なかったけれど、度々の使用不能を生じていたのは共用加入者線ゆえである。それの共用者のひとり(一戸)が使用中には回線が占有されてしまう不便は、1960年代末から逐次勧められたダイヤル自動通話化が、1980年代半ばには僻陬地にも及ぶに至り一般加入電話に切替えられて解消した。
ところが、驚くなかれ1990年代半ばの岐阜県飛騨山中で同じ事例に遭遇している。これには別項としたい。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8ED 1/500sec@f8 FujiSC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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