"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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[番外編 3] 青函連絡船 1978

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青函連絡船ことは書きもらせない。
札幌在住当時の60年代には飛行機利用は一般的ではなかったゆえ、内地への移動は青函連絡船以外に考えられなかった。だから、近代化船と呼ばれた津軽丸型客載車両渡船就航前の最後の車載客船であった初代渡島丸や摩周丸、かの洞爺丸などにも乗船しているはずなのだが記憶には無い。
やはり、それは64年からの新造船津軽丸型以降のこととなる。

青函航路の利用客がピークを迎えたのは1973年で、それは年間498万5695人と記録されている。一日の輸送人員の最高記録も同年の8月5日の上下便合計34560人とある。(出典 : 航跡-連絡船70年の歩み 1977青函局)
DISCOVER JAPANキャンペーンの成功もあって北海道への旅行客は激増し、実際にこの当時の連絡船は混雑を極めていた。
人気のあった深夜便などはシーズンならずとも桟橋に積み残しが出る始末であり、午前2時過ぎに出航する貨物便(151・158便)を臨時に客扱いとして捌くことも多々あった。
この事態には国鉄も乗船順位を決めざるを得ず、それは、連絡船の指定席券所持旅客、接続列車の指定券所持旅客、特急列車からの接続旅客、そして急行列車からの接続旅客の順とされ、当時の時刻表にも注記がなされていた。
周遊券利用の旅客としては、その最下位に位置づけられる訳で、ならば特別船室(グリーン船室)の指定席を買って自衛する他なかった。連絡船の指定席とは、この特別船室しかないのである。
客船の伝統であるのか、ここでの等級差は歴然と付けられ、自由席の特別船室が列車の特別車と同等の自在腰掛に対して、指定席のそれは一人用の独立腰掛でリクライニングもほぼ水平にまで可能な所謂フルフラットシートであった。
しかも、その料金は列車に比較してかなり割安だったこともあり、以降連絡船の終航まで常用するようになった。
なお、敢えてJISにおける正式呼称の腰掛と書いているのは、連絡船で言う「座席」とはその名のとおり座る席、カーペット敷のフラットルームであり、腰掛のある席は「椅子席」と区別していたからである。

連絡船に乗り込んで自席に着いた後、なすべきことは食事とシャワーである。
深夜便なら普通船室の乗船ロビーで鉄道弘済会による「あらまき弁当」の販売があり、これは出航前に列に並ばないと入手出来ない程の人気であった。これに溢れれば、「海峡ラーメン」のみの営業だった食堂に入ったけれど、当然こちらがお目当ての乗客も多かった。
当時の乗組調理人の方が、後年に函館朝市近くにこの海峡ラーメンの店を開かれていたが、ご高齢ゆえに惜しくも閉店してしまったらしい。
シャワー室は、後の<あさかぜ>や<北斗星>に設備のものより広く、湯量もふんだんに使用出来た。カード式ではなく、コインの直接投入と記憶している。
このシャワー室は建造時にはなく、1970年より松前丸から順次全船に追設されたものである。
これらが終われば、昼便なら遊歩甲板の散歩となるも、深夜便なら午前4時過ぎの接岸の船内放送に起こされるまでは眠るのみであった。

長くなりすぎた。次回に続ける。

写真は、上り4便として運航中の八甲田丸のシンボルマークとメインマスト。
連絡船のシンボルマークは、航路開設70周年を記念して1977年に制定されたもので、車両渡船を含め当時就航の13隻に付与されていた。客載車両渡船では、両側舷とメインマスト直下の消音器室外壁に取り付けられていたが、車両渡船には付与されたのみで船体への表示は無かった。
八甲田丸のそれは、八甲田山系と水蓮沼を表現したものである。

ご承知のとおり、八甲田丸は終航の後、観光施設として青森桟橋に繋船され、幸いなことにこの光景は今でも見ることが出来る。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f11 Non filter Tri-X(ISO320)
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