"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

七飯 (函館本線) 1971

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あちらこちらに引用されて、ついつい読んだ気にもさせられていたイザベラ=バードの著作「Unbeaten Tracks in Japan(邦題:日本奥地紀行)」を通読したのは、それの新訳本の出たつい最近のことである。当時の英国上流社会に属した人間の極東の未開地に対する見方に新たな発見はなかったけれど、1878年の夏を費やした横浜から越後地方を経ての奥羽地域から北海道への旅の記録は、19世紀末の日本辺境の自然や生活、習俗が細かく書き留められた、近代以前の日本の民衆の暮らしを記した貴重な資料には違いなかった。

バードは、8月17日に箱館から小沼畔の宿へと向かう途上に通過した七重(現七飯)について「整然とした洋風の村が立派な農作物に囲まれている」と記している。これは1870年から1894年まで置かれた「七重官園」の描写に違いない。現在に七飯町が町民憲章の序文に「近代農業発祥の歴史をもつ七飯町」と書くのは、その存在ゆえである。ここでの近代農業とは西洋式農業を指す。その実践と人材育成に設けられた施設が官園であり、後の農業試験場の嚆矢である。七重官園はその最初の事例となったのだが、それは、ここで起きたプロシア人リヒャルト=ガルトネルによる土地租借問題の顛末と云う歴史の偶然の結果に思える。この薩長新政権を揺るがした「ガルトネル開墾条約事件」については、北海道のポータルサイト「なまら北海道」のコラムが簡潔にまとめている。
ガルトネルは本格的な農園経営と条約に忠実に日本人への西洋式農法の教授を実践し、1868年から開墾の始められた農園にはリンゴやサクランボ、ブドウ、セイヨウナシなどの果樹や、大麦に馬鈴薯、キャベツなどの西洋野菜に、牛や馬、豚などの家畜をヨーロッパより持込み、その飼料にアルファルファやクローバー等の牧草の栽培も行い、また農耕にはプラウなどの洋式農具が取り入れた他、温室栽培までも手掛けていた。
莫大な補償金を支払って条約を破棄した新政権は、これらを財産として入手したことにもなり、ガルトネルに教えを受けた多くの農民も残ったのだった。開拓使がこれをそのまま開墾場としたのが、七重官園の始まりである。正式には1873年に七重開墾場と命名、1875年には七重農業試験場と改称され、同年より稲作試験、1877年からは傾斜地を利用した大規模水車による水力製粉、1880年からは葡萄酒醸造、ハム・ソーセイジの畜産加工や久根別川での鮭の人工孵化まで始められた。
バードが目にしたのは、西洋式の建物も多くが建てられていたであろう官園初期の風景である。

40年ばかり前、連絡船から乗継いだ気動車急行は五稜郭の操車場に貨車の群れを見ると、横津岳斜面から続く緩い傾斜地を横切って軽快に飛ばし、両方の車窓には畑作地に牧草地、果樹園の交互に過ぎ去る光景が続いて、やがては右転しながら高架橋に駆け上がれば、それらが一望に視界を占めた。それは、確かに美しいと評しても良い官園からの名残の風景だったろう。市街地化の進んだ現在には失われた光景でもある。
写真は暮れなずむ七飯での2153列車、五稜郭操車場からの小樽築港行きだった。と云っても函館本線を直進するでなく室蘭・千歳線回りである。
ここに40分程停車して、特急に急行、普通列車までを先行させていた。長い停車時間にはブロアを開いて蒸気を保持する。太いボイラのシルエットは長万部までを牽くD52である。
背景には今は伊達市に移転してしまったクレードル興農のアスパラ缶詰工場が写り込んでいる。町内に多くの農産部加工場の成立も官園所在に由来した。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 Bulb@f11 NON filter Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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