"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

落合 (根室本線) 1980

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1868年に幕府より政権移譲を受けた新政権にとって国家の近代化は焦眉の急であった。そのため、学術・技術の全ての分野に渡り諸外国の指導を仰いで、多くの外国人技術者が招聘された。「お雇い外国人」と呼ばれた一群である。主には米英独からの技術導入にて始まった官設の鉄道事業にも1888年までの20年間に670人余りが雇い入れられていた。日本人技術者や実務者の養成もまた彼らに課した職務であり、1870年3月に民部省鉄道掛の建築師長に就任したエドモンド=モレールは、着任早々に技術官養成の教導局を発足させた。これは1877年に工技生養成所に発展し、鉄道部内から選抜された24名に対して、数学、測量、製図、力学、土木工学、機械工学、鉄道運輸の7科目が教授されたのである。
勿論、授業には鉄道に特有の停車場設計の含まれ、その卒業生により停車場本屋、即ち駅舎の設計・建築は1880年代後半には多くが日本人技術者の手に委ねられることになった。以来に日本の国有鉄道は一貫して建築に関わる部署を内包し続け、大都市駅や特殊な建築等の例外はあるにせよ、自らがそれを設計・建築したのであった。
鉄道敷設が法定化され、幹線建設の進む1890年代に至ると多くが設けられる中小の停車場に対して早くも標準化の動きがあり、1898年に逓信省鉄道局は「停車場定規」を通達し、その中で鉄道工事設計参考図面に「停車場之図」を示した。これには第壱級から第五級停車場までの等級が定められ、本屋のみならず旅客便所に跨線橋や石炭小屋、貨物庫などから官舎に至るまでの停車場建築物全ての標準図面が提示されており、実際にこれに従って地方駅の建設が進められた。現在まで続く日本の鉄道駅の様式の定まったのが、この時代と云えよう。

一方で北海道内の官設の鉄道事業は、1869年7月設置の開拓使による事業開始以来、それの廃止された1882年2月8日より1886年1月26日に北海道庁が成立までの期間を除き、1905年4月1日の逓信省鉄道作業局への移管まで拓殖行政に組み込まれて運営され、その敷設事業も岩見沢旭川間鉄道建設に際して1896年5月8日付で置かれた臨時北海道鉄道敷設部が拓殖務省に、続いては内務省に管掌されたから、内部の技術者に人的交流のあったにせよ、逓信省の所管であった内地の鉄道とは些か異なる経緯を辿った。後に北海道型とも称された独特の駅舎建築は、米国技術を背景に気候風土ばかりでなく、この経緯にも源流のあるものと考えている。
1905年に管掌変更を受けた逓信省外局の鉄道作業局は、北海道内の計画路線に対しては、その輸送規模から1906年に「北海道線停車場定規」を別に示しながらも、異なっていた規格の統一上から本屋など建築物については先の通達の図面に準拠を方針としたのだが、様式までを定めることなく、これにて北海道型駅舎の原型の成立したものだろう。

1901年9月3日に北海道官設鉄道十勝線の終端駅として置かれた落合は、1897年11月2日付にて臨時北海道鉄道敷設部が鉄道部として北海道庁組織に組み込まれた時期の設計・建築である。
将来の狩勝峠越えの補機解結駅として機関庫を含む広い構内と運転上の重要駅には、マンサード屋根こそ採用されなかったが、重厚な北海道らしい本屋が建てられた。当時、ここに集落は存在せず、落合は駅名が先行し後に地名となったものである。
現在、Web上などには当時の本屋が100年を経て残ると記述されるのだが、近年に旧待合室部分が撤去されるなど原型が改変された上に、外壁・屋根などの更新も幾度か行われただろうから歴史的建築物としての価値は失われている。
写真は、往時の姿を伝えていた頃、その撤去されてしまった待合室へ正面出入口である。ファサードの三角屋根には質素ながらも装飾が施されている。他には見られぬそれには、石狩東端の停車場としてどのような意味の込められたのだろうか。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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