"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

音別 (根室本線) 1999

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和人が蝦夷地と名付けたその島の東岸に進出を始めた17世紀初頭、福山(松前)との往来や沿岸の交通手段は専ら船であった。古からの先住民族の交易路として波打ち際に踏分道も開かれてはいたけれど、それの通行は天候に左右され、また流れ出る大小の河川に妨げられる通路でもあった。18世紀の後半、幕府はロシアの南下に対する北方警護を迫られ箱館(函館)からエトロフに至る軍事道路を建設した。河川には架橋するなど海辺の交通路を改修・整備しつつも、各所で波浪を避けて内陸側に新道を開削ながら、日高沿岸から様似山道を越え太平洋岸を北上して根室に至る交通路が1806年には一応の開通を見たと云う。
1868年に蝦夷地全域を植民地とした新政府は、拓殖の基礎インフラとしての道路整備を重視し、翌年に設立の開拓使を以て、この幕府による開削道に馬車の通行を可能とする拡輻などの改修を施工、1876年にこれを三等国道に指定した。そして1885年には内務省により、苫小牧を起点に浦川(浦河)-幌泉(えりも町)-広尾-大津-尺別-白糠-釧路-厚岸-根室間の國道43号線が制定されたのだった。

後には国道38号線の一部となったこの道路の、音別地内で海岸線を辿っていたpaskur(馬主来)原野側については、前に 音別 (根室本線) 1976 に書いたが、対してsak-pet(尺別)原野側は早い時代から海沿いの道を廃して内陸に付け替えられていた。幕府によるものか開拓使によるものか調べ得ていないが、cuk-pet(直別)からap-nay(厚内)方面に続く海岸の断崖下を通路には不適と判断したものだろう。
けれど、その経路は後背の台地から海岸湿原に伸びた尾根筋を分断して尺別からほぼ直進する現在と異なり、二箇所でその尾根を越える線形であった。現在に、鉄道の撮影者達が尺別の丘などと勝手に呼んでいる、音別町の火葬場のある尾根先へ国道から上る道が当時の道筋である。それは火葬場の裏側から急斜面を下りて横切っていたのだが、この部分の痕跡はもうほとんど残っていない。旧国道の迂回を短絡するように建設された新道の供用は1960年代前半のことであった。

火葬場の裏手側斜面には粗末な墓標の並ぶ墓地がひっそりと所在して、何やら謂れの在るものと思っていたのだが、かつての街道がそこを通過していたとなれば、それは集落の共同墓地と云うことになるのだろう。ただし、通常には集落を見渡すような位置が選ばれるから尺別側を向くのが不可解ではある。かつてには尺別が中心集落だったものだろうか。確かに1915年に白糠村から独立した際の村名は尺別村であった。

冬の低い斜光線に尺別川橋梁前後のR=302からR=402曲線を旋回する4005D<スーパーおおぞら5号>。
ここでは定番の画角ではある。
キハ283系は制御振り子機構と自己操舵台車により、この曲線を本則+30km/h、即ち95km/hで通過する。
墓地に不粋な立入りをさせてもらったゆえ、見渡す墓標に一礼してそこを後にした。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f8 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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