"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

張碓-銭函 (函館本線) 1983

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恵比寿岩の名は、1857年にota-ru-nay(小樽)からpes-poki(星置)までの通行路をこの石狩湾岸の断崖下に開削した恵比寿屋半兵衛に由来する。それ以前に先住民の命名も在っただろうが、それは調べ得なかった。
恵比寿屋半兵衛なる人物は、江州八幡の商人-岡田弥三右衛門(岡田屋)の、屋号を恵比寿屋とした松前での支店(事業拠点)にて当時の岡田家に仕えた番頭を指すらしい(特定個人ではなく世襲名か?)。つまりは岡田屋の蝦夷地での事業を取り仕切った支配人である。
岡田屋は1600年頃には松前に達して恵比寿屋の屋号にて呉服太物に荒物を商って財を蓄え、1700年代前半には場所請負人に進出し、幕末期には檜山・石狩から宗谷・利尻・礼文に及ぶ日本海岸と噴火湾岸室蘭周辺に日高浦河の十数箇所の場所を請け負っていたとされる。それは漁場の数なら百箇所に迫ったと思われる。
中でも小樽内場所の七つの漁場は収益の拠点であり、この通行路の開削は場所経営の必要からであろう。余談だが、事業の許可権限を持つ箱館奉行は、この際さらに千歳までの開通を命じ、恵比寿屋も原野の草刈道程度ながらこれに応えている。後の札幌越え街道である。

1869年に開拓使本府の札幌造営が決まると、恵比寿屋による小樽札幌間の粗末な通行路は改修の行われ、1872年6月には取り敢えずの馬車の通行が可能となったものの、増大する交通に対して同年に小樽から銭函の断崖に新道開削が開始され、翌1873年に幅二間(=約3.6メートル)の西洋式道路が通じた。一部では1857年恵比寿屋の開削路を拡輻利用したものと思われる。これが現在の同区間での線路路盤の始まりである。石狩湾の波浪に抗し難かったこの道路は、それへの転用を前提に1877年にお雇い外国人のジョゼフ=クロフォードの手に依り改修の始められ、1879年に完成、1880年の鉄道敷設(官設幌内鉄道)に至るのである。
この狭い路盤には、その後永くに鉄道と道路が共存し当然乍ら事故も多発したと記録に在る。軍部が日露戦争後に背後の山間地に軍用道路を開削するのも、その隘路性が動機のひとつとなっていた。これは1920年4月に国道へと編入されるけれど、軍事用途の悪路に通行者のほとんど無く引き続き線路路盤が利用され、完全な分離は1934年1月の断崖上への新道(現国道5号線)の開通を待たねばならなかった。この時期となれば道内にも8620・9600の配置される時代であり、大型の機関車列車との共存は危険極まりなかったことだろう。

国鉄バス西香春停留所近くの定番位置から恵比寿岩を見下ろせば、そこには浜番屋に漁師小屋も所在して国道からの急坂を降りて往きもした。小樽に暮らした幼い頃にも札幌へのお出掛けの車窓にそれは見ていたから、自然の防波堤でもあった恵比寿岩の背後は古より小舟の繋留に利用されて来たのだろう。
近くで見ればそれなりの規模の漁師小屋や桟橋に乱雑に引上げられた小舟や漁具が、先ほどまでの風雪に埋もれていた。
暮色間近いモノトーンに赤いテイルランプが走り去る。列車は13D<北海3号>。

積雪に通行を心配した急坂には漁師と思われる長靴の足跡を見つけて安堵した。けれど、それは坂道に対して横を向いていて、なるほどカニ歩きでないと降りられぬのだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/60sec@f4 NONfilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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