"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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曲淵 (天北線) 1986

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この駅に降り立ち駅名標を眺めれば、そこには「稚内市」と記され、些か意外だった覚えが在る。平成の大合併とやらで広域に及ぶ自治体の珍しくもなくなった昨今ならいざ知らず、線路は南稚内まで32キロ余りを残していたからである。
この地は1879年に開拓使が宗谷郡を置いた際、声問村戸長役場の管轄区域に含まれた。宗谷湾岸声問川の河口付近に漁業者と思われる和人の定住が在り、その集落に先住民族による地名 koy-tuyeに声問の字を当て村名としたものだが、声問川の上流域に向けては宗谷丘陵に至るまで無人の原野(上声問原野と呼ばれた)が続いていたゆえだろう。1900年7月1日付で施行の北海道一級市町村制(1900年5月19日内務省令第19号)にて稚内村が指定されると抜海村と共にその一部となり、声問村の名は大字として残された。稚内が村から町、そして市へと改められた1949年4月1日以来、稚内市大字声問村字曲淵なのである。大字としての旧村名の存続は先の内務省令によるが、その後の改正で「村」を省略ないし廃する例が大半の中、ここではそれが現在まで残るのが珍しい。

そして、曲淵の地名はこの鉄道停車場名からの派生である。ここは、鬼志別まで達していた宗谷線の最終区間として1922年11月1日に稚内(現南稚内-但し位置は異なる)までを開通した際に、閉塞距離のある宗谷丘陵越え区間の西側に行違い設備を要して上声問原野の只中に設けられ、そこに集落なり人家の存在したでは無かったのである。命名者は知らぬが「北海道駅名の起源」(1939年鉄道省北海道鉄道局編)によれば、付近を流れる「ウベ、ウタン川」(宇流谷川を指すのだろう)の「淵を成し」且つ「甚だ湾曲」した流れからの付名とある。鉄道職員の居住に稚内町も、この年に大字声問村に曲淵の字を置き、鉄道を頼りに入植者や林業従事者の定住が始まって次第に集落の形成されたのである。
ここには、1940年に天北石炭鉱業が稚内坑(通称-稚内炭坑)を、宗谷炭礦が曲淵坑(通称-宗谷炭坑)を開き、戦時下には軍部による炭油抽出の指定坑として盛業し、戦後1950年前後の最盛期にはそれぞれが年間7万トンを出炭していた。その輸送に天北線の用いられたのは云うまでもなく、両坑のホッパまで専用線が引込まれていた。当然に炭住街が成立し、炭坑従業員だけでも500人を越える人口を抱え、多くの飲食店に劇場も営業する「街」であった。稚内との人的往来も盛んであったと思われ、天北線に最後まで残った稚内-曲淵間列車設定はその名残だったろう。
1958年に稚内坑が、1963年に宗谷坑が閉じられると個人経営の赤松炭坑による露天採炭が細々と続けられたものの、集落は衰退し、2010年国勢調査データでは61世帯113人が暮らすのみである。

夏の訪問で虻の大群に集られて散散だった線路沿いの林道へは、その秋に再訪した。→小石-曲渕 (天北線) 1986
高い緯度での紅葉黄葉に選んだ時期は、まだ尚早だったのだけれど、今度はゆっくりと心地よい林道歩きを楽しめたのだった。
列車は、勿論304列車<天北>。

余談だけれど、Web上に散見される、この駅が開業時に「曲渕」と名乗ったとか、読みを「まがりぶち」とする記述は誤りである。この区間の鉄道運輸営業開始の告示(1922年10月27日鉄道省告示第144号)に記載の通り、開業時より「曲淵」であり、曲渕であったことは一度も無い。読みも「まがりふち」とルビの振られている。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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