"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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島松 (千歳線) 2001

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ホレス=ケプロンやトマス=アンチセルなどの建言に開拓使が現役の屯田兵にそれを禁じたとしても、水田への転用の容易な低地、或は農地化には大規模な排水を要するような低湿地への彼らや民間入植者には稲作だったのである。それは至極自然な選択に思える。
道内での稲作経営は17世紀末に函館(大野)平野での成立が記録されるが、石狩地域においては寒冷な気候、とくに苗の育成時期の低水温から開拓使招聘の農業技術者らは、それを困難としていたのである。
ならばと、天日による水温上昇を狙って水源から水田までに迂回水路の構築や苗代へ風呂焚きした湯の注水を試みたのが、1871年に札幌郡月寒村の島松川の谷、島松沢に入植した中山久蔵であった。発想は明快だけれど、実行には多大の労苦をともなうこの方式にて、彼は1873年には1反(=約10a)の圃場で2石あまり(=350kgほど)の収穫を得たと云う。年間の自家消費の域を出るものでないが、開拓使が札幌に造成した水田での試験栽培の失敗が続く中での実績であり、月寒村から分村した広島村や望月寒村を改めた白石村での稲作の進展に、しいては石狩低地全域への拡大の礎となった。現在に残る、彼が4代目の取扱人を勤めたと云う島松駅逓所建物の傍らに「寒地稲作この地に始まる」との石碑が建てられている。

広島村や島松村の水田開発がどの地点から始まったものかを調べてはいないけれど、おそらくは中山久蔵の圃場のごとくに丘陵に浅い谷を刻んだ水流沿いの低地から、しだいに広大な低湿地であった長沼低地側へと及んだものと思われる。古い地形図を辿ると、緩やかな勾配に蛇行を繰返し乍ら丘陵地を削った谷には低地側から上流に至るまで水田の開かれた様子が伺え、入植農民の稲作への執着が感じられる。
陸上自衛隊の島松演習場の所在する二翁谷に水源を発するルルマップ川も同様で、柏木川との合流地点から周囲の畑作地に対して現在もその氾濫原だけに同島松駐屯地北側付近まで水田が入り込んでいる。

北広島から丘陵部の東縁を直線で南下する千歳線は、長沼低地へと流れ出る河川と交差する度に、その谷へと降りて往き架橋する線形を繰返す。島松の北方でのルルマップ川橋梁の前後にも10パーミルの下り込み勾配が介在した。開けた平野部を直進するばかりで、これと云った撮影位置の無いこの区間では、この鋸歯状の縦断面線形の見通しを写材とすることになる。
南19号線踏切(苗穂起点27K587M)からルルマップ川橋梁方向のこの画角では、南中時刻を過ぎれば東側の樹林帯の影が線路に落ち始める。それを利用するのもひとつの手ではあるが、回避するには14時30分頃に通過の8002列車でも夏至の前後を選ぶ他にない。その時期なら北海道だけの透明な大気感もいっしょに撮れた。

[Data] NikonF5+AT-X300AF PRO 300mm/F2.8D 1/500sec@f4 C-PL+SC42 filter Ektachrome Professional E100GX [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopCC on Mac.

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