"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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名寄機関区 (宗谷本線/名寄本線) 1971

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機関区詣での初めは小学生の頃の小樽築港機関区だった。休日に何度か遠目に機関車を眺めていたそこへ、意を決して正門から踏み入れ事務所を訪ねたのである。応対の職員に来意を告げると、子供ひとりを訝しくも思ったのか「どこから来たのか」「親は承知か」などを質問されはしたものの、備付けの帳面に住所・氏名を記入して待つように指示され、やがて現れた案内係の名札には「区長」とあって子供心にも恐縮した記憶がある。機関車を間近に運転台は勿論、煙室内部を覗き込み、ピットまで潜らせてもらっての見学の後には区長室で茶を馳走になり、青焼きの機関車配置表まで土産に持たされたのだった。今時の子供と違い、この当時にカメラは手にしていなかったは惜しいところだ。
これに味をしめて「また来たのか」と云われる程に通い、機関車台帳(機関車履歴簿)などの部内文書を写させてもらったりもしていた。鉄道趣味は機関車研究の方向には至らなかったけれど、今も貴重な資料として手元に残る。
ここで、開所間もない札幌運転区(現運転所)も見学したいと申し出て教えられたのが、鉄道管理局の広報担当部署を通じての手続きだった。早速に札幌駅に同居の札鉄局を訪ね、受付からの丁寧な応対に広報担当に面会して難なく見学日程を決められた。余談だが、子供の図々しさと云うのだろうか、この担当者氏をその後にも何度か訪ねて顔見知りになり、使い古しの運行図表などを頂戴したものだった。
この手続きを郵便によるやり取りにて試したのは、1968年夏の帰省先での勝田電車区の見学であった。水戸鉄道管理局文書課広報担当宛に依頼文と共に同封していた返信封筒には、希望の幾つかから選んでもらった日時に「お待ちしています」の一文が添えられていた。指定当日に訪ねれば、既に案内係りが待機しており「今日は見せたいものがある」として連れられた先には、その10月から東北・常磐線を上下する予定の583系電車の一編成が入区していた。運転経路上の検修区所に対する突発故障に応じた検修訓練のためだったろう。確かに思いも掛けないことで驚喜もしたけれど、何より印象に残るのは、それに同乗して検修指導を行っていると云う青森運転所の担当者が、留置中にて冷房も効かない車内で、たかが中学生ひとりを相手に寝台設廃の一部始終を汗だくで実演し、その昼夜での居住性を実現した画期的構造に付いて熱弁をふるったことだった。

これらの実体験にて知れるのは、運輸省が1947年8月に発表した「国有鉄道の現状」と題された白書の結びに使われた「国民の鉄道」「国民の国鉄」の意識が、1949年の発足後十数年を以て公共企業体日本国有鉄道の職員末端まで浸透していた事実であろうか。それは戦後に相次いだ国鉄を巡る謀略的事件や、桜木町、三河島、鶴見と云った重大事故からの信頼回復を教訓に国民への奉仕を部内に説き続けた結果にも思える。そこには国民経済を支える鉄道の職員としての強い誇りと職責も見て取れた。
事実、発足後の国鉄は広報活動に熱心であり、職用車に模型や資料を展示した広報車を用意し全国を巡回もさせ、また拠点においては自治体や地元新聞社の後援の元に鉄道博覧会も開催していたのである。現場の見学についても、その一環として垣根の無い受入が指示されていたものだろう。
私企業となった現在の旅客鉄道にこそ必要な姿勢とも思えるが、それを頑なに拒むのは、撮り鉄と称する一群の当時とは比較にならない数も一因だろう。

名寄機関区は、その地理的位置から幾度も足を運べたでは無かったけれど、直接に訪ねれば許可の下り、動きの少ない扇形庫にはじっくりと機関車に向き合えたものだった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f4 O56 filter   Tri-X(ISO400)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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