"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

初山別 (羽幌線) 1982

shosambetsu_05-Edit.jpg

羽幌線は、貨物に手・小荷物運送上の通過禁止線区であった。1958年10月18日の初山別-遠別間の開業による羽幌線の全通に際して採られた措置だが、「通過禁止」と云っても貨物列車の運行や小荷物輸送のなされなかったのでは無い。これは、その前年に全通を果たした大糸線への適用が最初の事例であり、国鉄部内で「大糸線方式」と呼ばれた。
国鉄の貨物や小荷物運送の制度は些か複雑なのだけれど、それは原則的に実際の輸送経路に関わらず、発駅着駅間の最短経路を以ての運賃計算を原則としている。鉄道がネットワークを形成して往く過程にて、必ずしも効率的な輸送が最短経路とは限らない貨物や小荷物輸送に運賃計算の煩瑣を避けて定められた制度であり、1918年9月に一部の輸送経路に対して始めて明文化され、1921年10月の運賃改定に際して全面的に採用されていた。
これを大糸線の例で示せば、首都圏から北陸方面への輸送は引続き本線系統の信越・北陸線経由でなされるのだが、それの開通により実際には極めて輸送量の小さい(特に信濃四ッ谷以北区間)この線区が運賃計算経路となる。この時期での建設線は幹線間の連絡・短絡線とは云え地域交通線ばかりで、一方では幹線輸送力の増強に莫大な投資を要していた国鉄とすれば、それによる運賃収入の低下は是非とも避けねばならない事態であり、これには貨物運送規則、荷物運送規則の先の定めに、特定線区を運賃計算経路としない例外規定(*1)を設けるに至ったのだった。
この羽幌線は、それの二つ目の事例とされたもので、石狩沼田-幌延間通過輸送に限り従来通りの留萠・函館・宗谷線経由の運賃収受としたのである。従って、石狩沼田-増毛間の留萠本線区間を含む線内相互発着運送は含まれず、この区間に限ってみれば、当時でも対象となる貨物や荷物の着発は限られたであろうから、どれほど損失を補充したものかは疑問ではある(*2)。
けれど、設備投資の財源確保に直面していた国鉄は1961年10月改正時点にて、建設線のみならず既存線区の多くにこの扱いを拡大した。荷物輸送から全面撤退し、車扱い貨物もほぼ壊滅した現在には忘れられた制度でもあり、参考までに64年10月時点での指定線区・区間を以下に掲げておく。

羽幌/札沼/花輪/米坂/水郡/両毛/八高/相模/川越/越後/高山/飯山/宮津/加古川/赤穂/播但/姫新/津山/因美/福塩/木次/九大/筑肥/佐賀/和歌山/飯田/身延/大糸/小海/宮之城/(八王子-多治見間)中央線経由/(直江津-多治見間及び軽井沢-多治見間)信越・篠ノ井・中央線経由
以上30線区と3区間が存在した。
.................................................................................................................................
(*1) 線名ないし区間名を示し、これを当該線区の営業条件と定めたのである。
(*2) 具体例を挙げれば、増毛発幌延着は羽幌線を運賃計算経路とするが、増毛発稚内着は留萠・函館・宗谷線経由で計算する。実際にも貨車はこのように操配され、輸送量の小さい線区の負荷を回避する施策でもあった。但し、荷物輸送もこの限りであったかは少し怪しい。

写真は初山別沿岸の短い夏を往く8804D<天売>。
夏臨期に札幌-羽幌間へ設定のこの臨時急行は、7月下旬から8月半ばまでは旭川発着編成も併結して4両組成となり、旧盆期間には幌延まで延長運転されていた。夏の最繁忙期をわざわざ選んでの渡道は、それが目的のひとつであった。この線区に在っては堂々の優等列車である。後追いにて前部2両が旭川行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://northernrailways.blog.fc2.com/tb.php/633-5d00ddca
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad