"Monochromeの北海道 1966-1996" そして Ektachromeの頃

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厚岸 (根室本線) 1980

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懇意にしている近所の魚屋に頼んで築地の東京市場から引いてもらっていた厚岸産が、牡蠣とすれば松島湾から三陸沿岸に広島産ばかりだったその店頭にも度々並ぶようになった。取引の横浜市場にもコンスタントに品物の入荷するようになり、得意客の評判も良いと云う。
それは、厚岸町や厚岸漁業協同組合が取り組んで来た厚岸湾産のブランド化の成功を意味し、養殖技術の向上が生産量の増加と安定供給を可能とした結果でもあろう。まずは慶事としたい。

厚岸大橋から湾側を見通せば、水面下に続く牡蠣殻の自然堆積にて形成された多くの浅瀬を湾内に見る。ここは太古より天然牡蠣の繁殖・生息地だったのである。そのひとつに鎮座する牡蠣島弁天神社の創建は定かではないが、存在は1871年の記録に残されていると云うから、それ以前より先住民族は勿論、遥々と和人による牡蠣の採取が行われていたのは間違いない。(余談だが、厚岸が先住民族アイヌ言葉で牡蠣を意味したakkesiに由来するとのバチェラー説は怪しい。at-ke-us-iが正当と思われる)
これが開拓使の支配以降に乾燥牡蠣や缶詰、醤油やオイルなどの加工に用いられ始めるとたちまちに資源は枯渇してしまう。低水温に幼生の定着率の低く、成長も遅いのだから当然ではあったけれど、当時にそれは知られていなかったのである。1910年代に3年間の禁漁措置を取り、その後にも漁期等の採取制限を行ったものの効果無く、松島湾やサロマ湖からの稚貝移植も技術的にことごとく失敗したのだった。
これのようやくに叶うのは1935年のことで、輸送技術も発達して宮城県産稚貝の牡蠣殻の浅瀬への大量散布により資源の復活を見たと云う。これは翌年以降にも継続されて地蒔き式養殖の始まりと云えなくもないが、本格的な養殖事業は遥か後年に1983年の大量へい死を切っ掛けとした垂下方式の導入以降のことであろう。とは云え、稚貝は引続き松島湾を始め三陸地域からのマガキの移入によるもので現在まで生産の主力ではある。

これに対して1999年に「厚岸町カキ種苗センター」を開設して始められたのがエゾガキと呼ばれた天然牡蠣の復活であった。厚岸町の姉妹都市であり日本原産のマガキ養殖産地でもあるオーストラリア・タスマニア州のクラレンス市から技術を移転した「シングルシード方式」による養殖は、2003年秋からの本格出荷に際して「カキえもん」のブランド名が与えられ、グルメブームを背景に極めて少量の生産を逆手に取ったネット上でのプロモウションが功を奏したと云うべきか、産地厚岸の名を知らしめたことにより、地元でマルガキと呼ばれる主力マガキの販路拡大にも寄与して、それの首都圏進出を果たしたのであった。

厚岸市街地の湖岸を走る列車は265D。キハ40が新製配置車だった頃である。
手前は、この当時の新興住宅街。それを見下ろした立ち位置の台地斜面も今ではすっかり市街地化している。

[Data] NikonF3+AutoNikkor180mm/F2.8C 1/250sec@f5.6 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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